はい、
明日的な今日から團菊祭ですね。滑り込み感満載で先月の感想です。笑
昼の部の「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)

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今回は有名な「野崎村」に加えて、その前の場面の「座間社」が上演されました。
「座間社」から出るのは珍しいそうです。


「座間社」は、久松中村錦之助さん)がどういう経緯で久作中村歌六さん)の家に帰ってきたのか、どうしてお染中村雀右衛門さん)が久松を追ってきたのかが分かる場面。

ひたすら小助中村又五郎さん)が、小賢しくて悪いやつながらもずっと楽しかったです!
最後の小躍りするところ、軽さがとても好きでした。 

それから、お染と久松をそっとしといてやろうとする、下女のおせん中村京蔵さん)。
もう絶対うきうきしているに違いない!というのがよく分かります。笑
他人の恋を横から見てるのって楽しくなっちゃいますよね(当人からすれば最も鬱陶しいやつ)

そんなおせんを送り出す、お染の台詞もいかにもで好きです。
「随分ゆるりとしてだんないぞえ」みたいなセリフだったと思うのですが、「ゆるりとしてだんない」ってかわいいですよね!!
ゆっくりしてて大丈夫よ、みたいな意味だと理解しているのですが、もう言葉の響きからしてかわいい。

ところで、この場面の舞台に私はちょっとテンションが上がってしまったのでした。
座間社付近の風景なのですが、手水鉢の上にちゃんと手拭いがかかっていたり、奥の方に芝居の幟が立っていたり、細かいところにわくわく

舞台って決して小さいわけではないと思うのですが、大道具・小道具にときめく心理はミニチュアのジオラマを好きだと思う気持ちに非常に近いと思っています。
あの舞台のサイズ感の中にこれだけの風景が作り込まれている…!という感動ですよね

***

さて、今回どうしても観たかったのは、野崎村のお光ちゃん(中村時蔵さん)。
詳細はこの記事で語っていますが、要はお光ちゃんが出てくる踊りをいつかやりたいので、その前に観ておきたかったという流れです。 

そしてですね…

だめですあの話は…ああいう、自分じゃどうにもならないものに、何の過失もないのに巻き込まれてしまう、どうしようもない娘に弱いのです…。
最後、舞台の真ん中で泣きに泣くお光ちゃんに、こちらもこらえきれずぼろ泣きでした。


とにかくお光ちゃん、かわいいのです。
お染ちゃんの、華やかに育ったおっとりしたかわいさとは違った意味で。

たぶん、立場として近いのは、少なくとも私にとってはお光ちゃんの方です。田舎育ちで、自分のことは自分でするような。 
だから感情移入してしまうし、江戸の初演のときも、きっと観客はお光に肩入れしたでしょう。

お光は、決して美しいわけではない。
お染に向かってはお行儀悪く「いーっ」とするところもあるし、動きもしゃなしゃなしてるわけではなくて、むしろ比較的おてんばな感じが見え隠れしていて、本当に「そこら辺の娘」なんですよね。

でもやっぱり、恋する女の子はかわいいんです。
 
久松(錦之助さん)と祝言を挙げると聞いて、テンションが上がりきってしまって抑えられない感じもしかり。
全然必要ないのにいそいそ鏡を持ってきて、大根切りながら嬉しそうに自分の姿を見るあたりなんか、たまらなく「女の子」。
かわいいですよね、全然いま見なくていいのに。大根切りながらって。
(この大根を切る時蔵さんの手さばきが見事です。料理下手としては見習いたい。あの大根、その後どうしてるんだろう。スタッフの皆様がおいしく召し上がってるんだろうか。)

対するお染ちゃん(雀右衛門さん)、彼女もまた強いなぁと思います。
一歩も引きませんもんね。
何せ、お光ちゃんの家の中で久松に甘えますもんね。。

いや、決してお染ちゃんが悪いわけではないと思うんです。
ただおっとりと育ったがゆえに、思ったままに行動してしまうだけであって、それはそれでお染ちゃんの毒のなさなんだと思います。
お染ちゃんなりにお光ちゃんに気を遣ったところもあるのですが…この場面でお光ちゃんに、その気持ちが届くはずもなく。
それはお染ちゃんにとっても、苦しいことなのでしょう。 

間に挟まれた久松、抜群にかっこよくありながら、いかにもこういうことをしでかしそうな佇まい。 

事情を知ったお光パパ・久作(歌六さん)は、お染と久松を説教するわけなのですが、娘としては色恋沙汰にパパに出てきてほしくないなぁ。。

いくら娘を思っての行動だったとて、やはりちょっとずつ感覚が違うと思うんですよね。機微が分かり切らないところが絶対あると思うんですよね。。

説教された二人が「思い切った」と言うのを聞いて、久作は「できた、できた!」と大喜びなんですが、
久作さん。そういうところですよ。
 
他の女のことを「思い切った」直後の男との祝言、嬉しいと思うか?

久作、ほんとに娘思いだし、実子ではない久松のことも心から思いやっているんですよ。
どの場面だったか忘れましたが、泣いているお染の肩を抱いてあげるところもあって。

けど、惜しい。やっぱり決定的なところを分かっていない。。

その辺、お光は全部分かっています。
この二人の「思い切った」は、この場を切り抜けるための方便。
今自分が意地を通したら、 二人は心中に向かうだろうと、お光は自らの髪を下ろすのです。 

舞踊「お光狂乱」の歌詞に、「在所生まれの私でも 許嫁すりゃ女房ぢゃもの」というところがあります。
「野崎村」を観ながら、ここの歌詞がものすごく突き刺さってきました。
 
女房になれなかったんだもの。すんでのところで。
「嬉しかったはたった半刻…」というお光の台詞が切ない。

お光ちゃん、えらかったよ。あなたは何も悪くないよ。

ここの竹本の詞章に「浮かぶ涙は水晶の玉より清き…」というのが聞こえてきて、その美しさがより一層哀しさを増すなぁと思いました。 

最後、両花道を去っていくお染と久松を見送るお光と久作。
手を合わせて詫び、感謝する二人に、お光は笑顔で首を振ってみせる

もう、お光は「久松っつぁん」とは呼びません。
久松に呼び掛けるのは、「兄(あに)さん」という言葉
「兄さん、おまめで」というセリフ。これだけで、自分はもう身を引いたのだ、というお光の覚悟が分かります。なんと気丈な…

でも二人が見えなくなったところから、お光の本音が見えてくる。

久松の行く方向から目を離せないまま、持っていた数珠をふっと取り落とすお光。
落としたことにも気付かず、遠ざかっていく久松の方をじっと見続ける。
落とした音に気付いて、久作が振り返る。数珠を拾って、娘に握らせる。

お光、ここでこらえていた思いが溢れます。
父にすがり付いて、「ととさん、ととさん…」と涙にくれるのです。

もうここがたまらない。。

久松もお染も、このお光の涙を知ってほしい。
二人に最後に見せた笑顔は、お光の無理なんだよ。

いや、逆かもしれませんね。

こういう涙を知られたくないから、笑顔で見送ったのかもしれませんよね。

***

さて、舞踊「お光狂乱」は、この「新版歌祭文」そのものというより、これを元にしてできた「お染久松色読販(おそめひさまつ うきなのよみうり)《お染の七役》」 から独立したもののようです。

しかし、やはり元を辿ればこのお話だと思うので、知っておけたのは良かった。

そしてどことなく「妹背山」のお三輪ちゃんに通ずるところがあるなぁと思っていたら、同じ近松半二の作なんですね。
どうも半二さんの作り出す女の子にまんまと惹かれてしまうようです。笑

最後に話はちょっとずれますが、
近松半二が主人公の小説『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び(大島真寿美、文藝春秋、2019)、芝居が生まれる興奮と、登場人物が生き続けていく喜びに溢れた一冊でした。
今月は国立小劇場で文楽の『妹背山婦女庭訓』通し上演もあることですし、良い時に良い本に出会えました

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