歌舞伎座2月の大歌舞伎、第2弾です。
昼の部・二幕目「暗闇の丑松」。
ポスター右です。丑松の尾上菊五郎さん。
全く知らなかったお芝居でしたが、「刺青奇偶」の長谷川伸さんの戯曲とのこと。
(ブログ最初期なので内容が薄いですが、シネマ歌舞伎「刺青奇偶」の感想はこちら)
こちらも「すし屋」(感想はこの記事)に続き重めの話で、観劇後に思わず考え込んでしまいました。
そんな「暗闇の丑松」、初心者なりの感想です。
■初心者でも楽しめるのか?
ストーリー自体は分かりやすいのではないでしょうか。
筋書を読まない方が、却って混乱なく観られるかもしれません。
「新歌舞伎」ではありますが、限りなく現代演劇に近い感じがします。
台詞も全部、聞き取りやすい現代語です。(ときどき耳慣れぬ言葉が混じりますが…)
筋書を読まない方が、却って混乱なく観られるかもしれません。
「新歌舞伎」ではありますが、限りなく現代演劇に近い感じがします。
台詞も全部、聞き取りやすい現代語です。(ときどき耳慣れぬ言葉が混じりますが…)
ただ、「分かりやすく楽しい」歌舞伎を求める場合は、この演目は多分ちょっと疲れます。
後述の湯屋の場面なんかは明るく楽しい雰囲気が漂いますが、この明るさもどちらかというと、丑松の陰鬱さを際立たせる演出な気がします。
初心者でも「分かりやすい」演目ではあると思いますが、「楽しいと思える」演目ではないのではないかと。
私は正直、こういうのもとても好きです。笑
■感想
いきなり最後の場面の話ですが、大詰の湯屋の場が素晴らしいです。
まず大道具・小道具が見どころ満載。
湯気がほやほやもくもくとたちこめ、本当にお湯を汲んでは入れる。
外には風呂桶がたくさん干してあって、それを番頭さんが取り込みつつ、頼まれたらその人の桶をとって風呂場に持っていく。
そして、この湯屋の番頭・甚太郎を演じている市村橘太郎さんがたまらなくいいです!
階段を何段か飛ばしで身軽に駆け上がったり、気持ちよく歌いながらお湯を汲んだり。
桶の取り込み方もすっかり板に付いていて、一度に何個持って、このルートをこのスピードで歩く、というのがもう長年ここで働いている番頭さんそのもの。
動きが体に染み付いて、生活の中で自然に生まれてくる、生き生きとしたリズム。
この人はずーっとこの場所で、こうやって仕事をしているんだな、というのがよく分かります。
もう「ある日の湯屋番頭」みたいな芝居を作って、この番頭さんの身軽な動きを観続けるだけでも、私は飽きないんじゃないかというくらいです。笑
この人はずーっとこの場所で、こうやって仕事をしているんだな、というのがよく分かります。
もう「ある日の湯屋番頭」みたいな芝居を作って、この番頭さんの身軽な動きを観続けるだけでも、私は飽きないんじゃないかというくらいです。笑
***
湯屋に限らず舞台がとにかく興味深くて、例えば妓楼の場面では、外の大雨がよく分かる演出になっています。
出ていこうとする客が、戸を開ける度にものすごい風に押し戻されて、着物の外に出たところだけぐっしょり濡れる。
リアルです。笑
台詞もいいんですよ、
「神立だと思うんですが、そのうち地雨に変わりますぜ」みたいな台詞があって、こんな言葉がぱっと出てくるんだなぁと思いました。
神立は夕立のこと、地雨は同じ勢いで降り続く雨のこと。
日本には雨を表す言葉が多いと言いますが、果たしてそのうちのどれだけを使いこなせているだろう。
たわいもない台詞かもしれませんが、ものすごく印象に残っています。
このあとの、丑松と妓夫・三吉(片岡亀蔵さん)の軽口の叩きあいもいいです。
丑松がテンポよくぽいぽい投げる冗談が、何というか思い描いていた江戸ッ子そのものです。笑
***
妓楼の中での喧嘩の場面、祐次(尾上松也さん)が印象に残っています。
喧嘩っぱやくて血気盛んな若けぇの、という感じで、キレキレ。若いっていいですね。笑
この妓楼も舞台が面白くて、部屋の中だけじゃなくて、そこに繋がる廊下も見せるのです。
だから部屋を出入りする人が、部屋の内外でどういう気持ちを抱えるのかが、観客にも分かります。
お米(中村時蔵さん)が部屋を出ていったあとの、廊下での様子が辛い。
***
芝居として振り替えると、本当に哀しい話です。
個人的に一番ぐっさり来たのは、身を落としたお米の注いだお酒を、丑松が拒否するところ。
二人がまだ一緒にいる前半のある場面、丑松がお米を頼り、お米は丑松が言葉にして何も言わなくても「水かい?」といって水を飲ませる。
家で飲む水と、ああいう場のお酒は、確かに全く性格の違うものではあるのですが、
それでもそうやって自然にやり取りしていたものが、もう決定的になくなってしまう。
あのお酌の場面に、私は圧倒的な「拒絶」を感じました。
***
丑松は、何にあんなに恨みを持っていたんでしょう。
何がそんなに憎いんでしょう。
四郎兵衛(市川左團次さん)の家を訪ねたときに四郎兵衛の女房・お今(中村東蔵さん)に出会わなければ、もうちょっと健全な理由で、四郎兵衛と対峙できたと思うんです。
いや、健全な殺しなどこの世にないのですが、「愛する人を死に追いやられた」というのは一応理由として筋が通る。
でも、そこじゃないですよね。もっと鬱屈した、割り切れない思いが丑松にはあるはずです。
確かにお今は、やり方が悪かった。丑松への誘い文句も良くない。
あれは確かに、ものすごく傷付いて恨みを抱えている丑松を逆なでする行為だった。
でも、お米はどうだったんでしょう。
愛する丑松を出しにされて、究極の選択でやむにやまれなかったんじゃないのだろうか。
それを「女はみんなそうだ、それが俺は憎いんだ」と一まとめにして爆発させる、その丑松が私は分からない。
丑松が真っ直ぐすぎるから、たとえお米が丑松を想うあまりの行動だったとしても、そういう女の選択を許せないのでしょうか。
激動の中を彼女なりに頑張って生きたのに、丑松からも、四郎兵衛からも「赤の他人だ」と言われてしまうお米の人生が、とても哀しかったです。