2月の歌舞伎、最後に観たのは「熊谷陣屋」。
劇場の空気が張り詰める、緊張感のある素晴らしい一幕でした。
感想を語ってみたいと思います!
吉右衛門さんの熊谷陣屋は一度テレビで観ていましたが、生で観るとやっぱり空気感が全然違う。
テレビでは映し切れないところ、花道をゆっくりと出てくる背中に滲み出す重さとか、どうしようもなさとか、最後の花道の孤独感とか、
そういったものが、舞台からあんなに遠い4階まで広がってきました。
***
花道から登場した熊谷は、本舞台にくると、陣屋に入る前にまず制札を読みます。
後の展開を考えると、この場面でのただならぬ心情が胸に刺さります。
いよいよ首実検となったとき、熊谷はこの制札を引き抜き、義経(尾上菊之助さん)に示す。
この制札どおり、敦盛の首を取った。制札の真意はこういうことですよね、自分は間違いましたか、と、我が子・小次郎の首を義経に見せる熊谷の勢い。
あくまで敦盛の首として扱う以上、「小次郎」とそのまま言葉にすることができないけれど、我が子を討った悲しみ、苦しみが痛いほど分かる場面です。
差し出された首を見た義経は、自分の真意が熊谷に伝わったと分かり、この小次郎の首を敦盛と認め、よくやってくれた、と首実検を終えるのです。
敦盛の首が入っているものだとばかり思っていた首桶から、我が子の首が出てきたのを見て、やりきれないのは熊谷の妻・相模(中村魁春さん)。
我が子の首を掻き抱きながら涙ながらに語る相模ですが、やはり小次郎という名前を出すわけにはいかないため、最後まで「敦盛」と呼び続けるのが切なくてしょうがない。
そして登場する、何やら“普通のおっちゃん”っぽい人物・弥陀六(中村歌六さん)。
(歌舞伎で普通のおっちゃんっぽい人物がいわくありげなシーンで出てきたら、それはもう絶対普通のおっちゃんではないのはお約束ですね。)
無常を悟る、というところがテーマの物語ですが、その悟りは生半可なものではなく、
本当にどうにもならないことを、身を引き裂くような思いで体験しないと得られないのだと、
笠で耳を塞ぎ、目を伏せて花道を去っていく熊谷の姿を何度も思い返しながら、考えています。
劇場の空気が張り詰める、緊張感のある素晴らしい一幕でした。
感想を語ってみたいと思います!
■初心者でも楽しめるのか?
正直、初心者向けとは言いにくいと思います。
「寝てしまった」「全く分からなかった」という声が聞こえてきたり、
芝居の後に「こういうこと?」と確認し合う内容が全然違ったり、
涙せきあえずという感じの方の隣にキョトンとした顔の方が座っていたり。
おおよそ幕見席はそんな感じでした
かく言う私自身、聞き取れないところも多く、うつらうつらしてしまったところもあり、筋書がなければなかなかしんどい1時間40分だっただろうなぁ、と思います。
1年半前、2年前の自分が観て、ちゃんと感動できたか?
そう聞かれれば、ちょっと自信がない、何ならほとんど寝てしまったかもしれない、というのが正直なところです。
(とはいえ、最後の花道は思うところがあったに違いないとは思います。)
(とはいえ、最後の花道は思うところがあったに違いないとは思います。)
そんなわけでなかなか「気軽に歌舞伎を!」という演目にはなりにくいと思うのですが、
もし少しでも歌舞伎に興味があって、物語を味わうことが好きなら、予習してでも観に行って絶対に損はない。
もし少しでも歌舞伎に興味があって、物語を味わうことが好きなら、予習してでも観に行って絶対に損はない。
今回の公演はあと数日しかありませんが…。
何ともやるせない話です。
■感想
冒頭にも書きましたが、とにかく劇場全体の緊張感には凄まじいものがありました。
熊谷次郎直実は中村吉右衛門さん。
熊谷次郎直実は中村吉右衛門さん。
吉右衛門さんの熊谷陣屋は一度テレビで観ていましたが、生で観るとやっぱり空気感が全然違う。
テレビでは映し切れないところ、花道をゆっくりと出てくる背中に滲み出す重さとか、どうしようもなさとか、最後の花道の孤独感とか、
そういったものが、舞台からあんなに遠い4階まで広がってきました。
***
花道から登場した熊谷は、本舞台にくると、陣屋に入る前にまず制札を読みます。
後の展開を考えると、この場面でのただならぬ心情が胸に刺さります。
いよいよ首実検となったとき、熊谷はこの制札を引き抜き、義経(尾上菊之助さん)に示す。
この制札どおり、敦盛の首を取った。制札の真意はこういうことですよね、自分は間違いましたか、と、我が子・小次郎の首を義経に見せる熊谷の勢い。
あくまで敦盛の首として扱う以上、「小次郎」とそのまま言葉にすることができないけれど、我が子を討った悲しみ、苦しみが痛いほど分かる場面です。
差し出された首を見た義経は、自分の真意が熊谷に伝わったと分かり、この小次郎の首を敦盛と認め、よくやってくれた、と首実検を終えるのです。
敦盛の首が入っているものだとばかり思っていた首桶から、我が子の首が出てきたのを見て、やりきれないのは熊谷の妻・相模(中村魁春さん)。
我が子の首を掻き抱きながら涙ながらに語る相模ですが、やはり小次郎という名前を出すわけにはいかないため、最後まで「敦盛」と呼び続けるのが切なくてしょうがない。
そして登場する、何やら“普通のおっちゃん”っぽい人物・弥陀六(中村歌六さん)。
(歌舞伎で普通のおっちゃんっぽい人物がいわくありげなシーンで出てきたら、それはもう絶対普通のおっちゃんではないのはお約束ですね。)
隠している本名・平宗清として義経に呼びかけられたときの、一瞬のためらい。それでも隠し通そうとするけれど、黒子でばれてしまう。
この弥陀六と宗清の変わり様がさすがでした。
義経は宗清としての述懐を聞いた後、もう一度「弥陀六」と呼びかけます。
宗清は違和感を覚えつつも、弥陀六として返事をする。
そして義経から渡された鎧櫃の中に敦盛の姿を認め、制札の真意を知り、敵同士でありながらの義経の配慮に感謝するのです。
この弥陀六と宗清の変わり様がさすがでした。
義経は宗清としての述懐を聞いた後、もう一度「弥陀六」と呼びかけます。
宗清は違和感を覚えつつも、弥陀六として返事をする。
そして義経から渡された鎧櫃の中に敦盛の姿を認め、制札の真意を知り、敵同士でありながらの義経の配慮に感謝するのです。
この制札の真意を知った弥陀六の「かたじけない」という一言の重み。
この場面、人間模様がとにかく深くて、圧倒されます。
本来最も重要な事実である「小次郎が犠牲となって、敦盛は生きている」ということは、セリフの中には一言も出てきません。
しかし、その場の全員がそれを言ってはならないとお互いに配慮しながら、心の奥底にある思いをちゃんと理解し合っている。
「察する文化の日本」みたいな視点で言ってしまえば非常に「日本的な」場面かもしれませんが、
そういう括りで語りたくない、ずっしりとした人間模様のドラマです。
この場面、人間模様がとにかく深くて、圧倒されます。
本来最も重要な事実である「小次郎が犠牲となって、敦盛は生きている」ということは、セリフの中には一言も出てきません。
しかし、その場の全員がそれを言ってはならないとお互いに配慮しながら、心の奥底にある思いをちゃんと理解し合っている。
「察する文化の日本」みたいな視点で言ってしまえば非常に「日本的な」場面かもしれませんが、
そういう括りで語りたくない、ずっしりとした人間模様のドラマです。
そして一番の見どころ、最後の熊谷の花道。
「十六年は一昔。夢だ、夢だ…」という名台詞は、テレビでも見覚えがありましたが、こんなに重たかったか、と。
「夢」なんてすぐに割り切れるはずはなく、悔しくて、気持ちの行き場がなくて、どうにもやりきれないのが本当だと思います。
「夢」なんてすぐに割り切れるはずはなく、悔しくて、気持ちの行き場がなくて、どうにもやりきれないのが本当だと思います。
花道であたりを見るともなく見回す熊谷。
陣鉦の鳴ったあとなので、武士たちが多く行き交っているのでしょうか。
その中には、小次郎と同じような年の者もいるでしょう。小次郎が何事もなく生きていれば、当たり前のように育ったはずの年齢の者たちもいるでしょう。
そういうものが、否応なしに運命を変えられていってしまう世の中。
陣鉦の鳴ったあとなので、武士たちが多く行き交っているのでしょうか。
その中には、小次郎と同じような年の者もいるでしょう。小次郎が何事もなく生きていれば、当たり前のように育ったはずの年齢の者たちもいるでしょう。
そういうものが、否応なしに運命を変えられていってしまう世の中。
無常を悟る、というところがテーマの物語ですが、その悟りは生半可なものではなく、
本当にどうにもならないことを、身を引き裂くような思いで体験しないと得られないのだと、
笠で耳を塞ぎ、目を伏せて花道を去っていく熊谷の姿を何度も思い返しながら、考えています。