ほんのり*和もの好き

歌舞伎や文楽、日本舞踊、着物のことなど、肩肘張らない「和もの」の楽しみを、初心者の視点で語ります。

2018年09月

今更ながら…九月大歌舞伎「幽玄」が素晴らしかった話。

秀山祭九月大歌舞伎夜の部。
太鼓芸能集団・鼓童との共演・新作歌舞伎舞踊「幽玄」

「幽玄」へのスタンスは、今朝の記事(⇒こちらに書いた通りです。
遅きに失した感甚だしいのですが、拙い感想をば。。

しかし当日の帰り道にしたためた文章にも関わらず、
言葉が感想に追いついていない上に、
人間の哀しさですね、観たそばからぼろぼろと細かいところを忘れてしまうのです…


***

能楽から引いた舞踊「羽衣」「石橋」「道成寺」の三作品からなる構成。
それぞれの舞踊ごとに。


*羽衣


始まってすぐに聞こえた音が、まさか太鼓とは思いませんでした。
場面に合うような自然の音を、
別の楽器で作って録音したテープかと思った。
 
それほど繊細な音。あんな音が太鼓で出せるなんて。

さざ波の音、松籟…
どの音が何だかはっきり分かるわけではないけれど、
「あぁ、この場所はきっとこういう音が聞こえるよな」
というのは不思議と納得がいく。

声明やグレゴリオ聖歌を感じさせるような謡が、
また荘厳な空気を作り、静かに静かに舞が進みます。

旋律を作り出す楽器の不在にも全く違和感がなく、
かえってぼうっとした不思議な世界観を作っていました。 

天女が伯竜(漁師)と別れ、天へと帰っていく場面は
廻り舞台で表現されるのですが、
この盆を回すタイミングが完璧。

仕組みを話せば、天女だけが盆に乗っていて、
盆が回ることで二者が離れていくのですが、これを説明するのも野暮ですね。。

 
人間たちと全く同じ地続きの舞台の上にいながら、
本当に天女だけが ふっと遠くに離れていってしまうようで、
 
その絶対的な別れの一瞬がとても儚かったです。


*石橋


羽衣とは打って変わって、今度は勇壮な太鼓・打楽器が印象的。 
若手獅子たちの気迫と相俟って、鳥肌が立つほど格好良かった。

獅子の登場前の鼓童の演奏、
思いもよらないところから
思いもよらない音が聞こえて面白かったです。
 
ずらりと並んだ太鼓の高い音、低い音の配置が絶妙で、
聞こえてくるタイミングも、音の高さも予測がつかないのです。

舞台から一番離れた4階幕見席にまで
空気の振動が伝わって来るほどの音の盛り上がりの中で、
獅子たちが見せる狂いは大迫力。

客席から沸き起こった拍手さえも、
怒濤の盛り上がりを見せる舞台演出の一部のようでした。

(反対に羽衣は、拍手すら鬱陶しいくらい厳かな舞台で、
本音を言えば何も音を立てずに観ていたかった。)


*道成寺


圧巻。

暗闇にぼうっと浮かび上がる白拍子花子の、
赤い衣装の物凄いこと。
黒い闇の中の一点のって、あんなにも美しく空恐ろしいものなんですね。。

そもそもあんな時間に、娘が一人で歩いているわけないんだもの。
夜、という設定がもう、なんだかこわい。

独特な緊張感を保ち、張り詰めている舞台。
太鼓の音が、花子の鼓動のようにも聞こえてきます。

「道成寺」では、今までの2曲よりも踊りと演奏の境目があいまいで、
鞨鼓の踊りのときには鼓童のソロの見せ場があり、 
花子も「太鼓を演奏する者」の存在を認識しているように見えました。
 
それにより、この舞台の世界観が出来上がっていたというか、
「この世界の道成寺」というものがあったような気がします。

欲を言えば、玉三郎さんの鞨鼓や振り鼓の踊りも堪能したかった…!
ただ、舞台の性質上むずかしいのもよく分かります。

 
白拍子は舞台奥の鐘に飛び込み、
舞台上ではいろんな打楽器が代わる代わる華やかに響いて、
そのテンションの上がりぶりが、
クライマックスへ向かう緊張を弥増していきます。
 
そして、蛇体となった清姫の怨霊の登場。

あの盛り上がりを何と言えばいいんでしょう、
煽る音楽に、舞台狭しとダイナミックに動く鱗四天。
ほんの少しの動きで他を圧倒してしまう、怨霊の迫力。


幕が下りてからも、場内からの拍手が鳴り止みませんでした。


***

あぁ悔しい、あんなに感動したのにもう細かいところ忘れてる。。

全体を通して、

太鼓であれほどまでに音楽に表情がつけられるのかと、衝撃でした。
 
全部舞台で出している音だなんて信じられないくらいの音の厚み、深み。

もともと和楽器に限らず、西洋音楽でも
打楽器というものが大好きだったのですが、

その可能性がこんなに広がっているとは。
そしてその先に、これまた大好きな舞踊があったとは。

仕事帰り、かつ翌日も仕事というスケジュールでしたが、
ちょっと頑張ってでも観にいって本当に良かった。

仕事帰りにちょっと立ち寄る、というレベルではもったいないくらい
贅沢な観劇体験をさせていただきました。

 

秀山祭「幽玄」の賛否両論に、歌舞伎初心者が思ったこと

すごく感激した秀山祭九月大歌舞伎・夜の部の「幽玄」、
見事に賛否両論だったんですね。。

自分の感想は自分の感想なんだからいいんだ!と思いつつ、

初心者って安易に歌舞伎の感想書きにくいんだよなぁ
という思いがずっとあったので、
これを機につらつらと考えをまとめてみました。

***

正直、役者や音楽や演出がどうとか、
歌舞伎座がどういう場所なのかとか、
その月の公演がどういう意味を持ったものなのかとか、

初心者にはよく分かりません
 
観始めたばかりだから、全ての演目が新鮮で、
どれを観ても素直に感動できるし、
逆にどれを観てもどこかしら分からない(笑)

眼目を見落としたり、気付けなかったりするときもあるし、
歌舞伎好きにとったら常識みたいなことに甚く感動することもある。

そういうもろもろの知識不足を自覚しているがゆえに、
感想を書くことは恥を晒すようで、気後れしてしまうのです。


***

今回の「幽玄」、私は圧倒的に「賛」側です。

私はただただ純粋にあの舞台演出を楽しみ、 
もともと大好きな打楽器というものを味わい尽くし、
大好きな打楽器と大好きな踊りの出会いを心の底から喜びました。
(本音を言えば、玉三郎さんの舞踊をもっと堪能したかった思いはありますが…)

歌舞伎や能に詳しい、知識の豊富な方から見たら、
いろいろ思うところがおありなのかもしれません。

確かに私は歌舞伎初心者で、
劇場の意味も秀山祭の意味も深く考えておらず、
舞や踊り、演奏の本来あるべき姿も分からない。

でもそれは、舞台をつくる方々が
十分すぎるほど十分にご存知
なはずです。
生半可なお気持ちで舞台に立たれる方は、
誰一人としていらっしゃらないと思います。 

だから初心者の自分は、
細かいことは気にせず
まずは安心して楽しめば良い
のかな、と。

辛口の感想は批評ができる方にお任せして、

今の自分がその舞台をどう感じたかに素直になる。

純粋にその舞台を味わい、楽しんだのなら、
何を恥じることがあるでしょう。

***

初心者が気後れして口をつぐんでしまったら、
歌舞伎はいつまでも「ハードルが高い」存在から
抜け出せないのではないでしょうか。

もちろん全員が全員讃美してしまったら
それはそれで歌舞伎の未来はないと思いますが、

初心者こそ、まずは流されずに自分の感想を持ちたいものです。



というわけで、

近々「幽玄」の感想、アップします。笑



 

文楽「夏祭浪花鑑」を観てきました~観劇の感想~

以前、この記事で触れた「夏祭浪花鑑」

歌舞伎の方を観た直後に、
これを文楽で観てみたいと直感のように思った作品です。

念願叶い、国立劇場・九月文楽公演の楽日に行ってまいりました。

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いやもう、素晴らしかった

全編通して、情と心意気とどうしようもない因果とに
何度も目頭が熱くなりました。

***

圧巻だったのは、やっぱり「長町裏の段」
だんじり囃子が聞こえる中、
団七が、泥にまみれながら舅である義平次を手にかける場面です。 

義平次の執拗な嫌がらせと、子供じみた言いがかり。
それを「舅も親」と懸命に飲み込もうとする団七。
それでも悔しくて悔しくてならないのが、
「こなたは、こなたは、こなたは……!」という詞章で痛いほどわかる。

その後の泥沼義平次殺しの場面は、
語りは何もなく、煽るような三味線とお祭りの賑わいだけ。

大音量で華やかに盛り上がるだんじり囃子と、
「チョーサァ!ヨーサァ!」という大勢の掛け声が、
ただでさえ凄惨な場面に息を詰めているこちらの心拍数をさらに上げていく。

ことが終わって神輿が去り、祭り囃子も遠のき、辺りが静まり、
殺してしまった義父に「南無阿弥陀仏」と手を合わせる団七。

一瞬の静寂ののち、

「八丁目、指して」

の「は」の一音でがばっと我に返る、あの勢い。

心臓わしづかみでした。

***

このお話で好きな登場人物は、何と言っても
徳兵衛とその女房・お辰。 

男伊達とその妻なのですが、
これが非常に肝の座った、よくできた者どうしの夫婦です。

お辰は一場面だけしか登場しないのですが、
一度決めたことを貫くために、自らの美しい顔を犠牲にする強さは
どの登場人物にも負けないインパクトがあります。

吉田簑助さんのお辰、どの瞬間を切り取っても美しく、絶品でした。

徳兵衛は、主人公団七と義兄弟の契りを交わした相手。 
最後の「田島町団七内の段」での侠客っぷりが見事です。

団七の舅殺しの罪を知った上で、
あの手この手で、自分が悪者になってでも団七を逃がそうとする徳兵衛。
なんと義理堅いことでしょう。 

最後の場面、屋根上で団七を捕らえるふりをして
銭を渡し、玉島へ逃げるよう囁く徳兵衛のかっこいいこと。

***

「田島町団七内の段」 では、団七の女房・お梶も泣かせます。

夫に親を殺されるという、あまりに辛い板挟みの立場のお梶。
それでも夫の罪を少しでも軽くするために、
三婦や徳兵衛の芝居にのってみせるのです。

この場面でのお梶の言葉が、どれも胸に刺さる。

この流れで言うのもアレですが、
歌舞伎の立廻りと違って人形だと
倒された者たちが容赦なくぽいぽい飛ばされていくので、ちょっと面白かったです。

***

文楽は、筋書を買うと床本がついてくるのがいいですね。
心に残った場面や、理解が不安だった場面を振り返るときに、とても便利。

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圧倒されっぱなしで、本当にあっという間に終わってしまった4時間半。

しばらくは何にも触れずに、この余韻に浸っていたい。

痺れました。

 

歌舞伎まわりの用語が基礎から分かった一冊『歌舞伎音楽入門』

Twitterでも何度か挙げた、先日見つけた本です。

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『歌舞伎音楽入門』(山田庄一、音楽之友社 昭和61年)

古書店での出会いだったので、
新刊書店で扱いがあるか分からないのですが、
 
何となく疑問に思っていたことがいろいろ解決した
ありがたい一冊でした。

***

この本のいいところは、
流れを俯瞰しながら理解できるところ。

歌舞伎の発生から現代に至るまでの大まかな流れや、
種々の音楽がどこに起源を持ち、どう発展したのかなど、
概観していけるので とても分かりやすかったです。

一つひとつ理解しながら進むと、
その場で調べた取って付けたような知識よりも身に付く感じがします。


歌舞伎を見始めたものの、
何となく分からないことがちょこちょこある。。

といった方や、

大まかに歌舞伎について知りたい!

という方にぜひおすすめしたい一冊です。


ちなみに私がこの本ですっきりしたのは…

*ふつうの会話っぽい芝居と聞き取りにくい芝居とあるのはどうして?
*今年10月の芸術祭『助六曲輪初花桜』は何で『助六由縁江戸桜』じゃないの?
*長唄、清元、常盤津って何が違うの?
*新内とか大薩摩とか、名前は時々聞くけどどんなもの?
*文楽の太夫と歌舞伎の竹本って違うの?

といったもやもや。 

こういうの、インターネットでも出てくると思うのですが、
なぜかこういうものを画面で読むのは億劫なんです。

多分、ネットの画面でパッと理解するような
情報量ではない
のでしょうね。

そういうときに、やっぱり本は重要だなと思いました。

じっくり時間をかけて、それなりの分量の情報を理解していく。

その作業に向いているのは、ネットよりも本なのだと思います。 

***

昭和61年の本ですが、古典芸能ということもあって
情報は古びていないと思います。

ただ、現代で憂えていることを当時から憂えていたのだな、とか

当時抱かれていた危機感を、今解決できないままなんだろうな、とか

そういう寂しさは感じました。

そして何より、

途中に出てくる女子高生の文章力が凄まじい。。

国立劇場で初めて歌舞伎を観た高一女子の感想文なのですが、
非常にしっかりとした日本語で綴られていました。
見習いたいものです。どうしたら高校生であんな品の良い文章を…
本筋とは全く関係のないところで
いたく感動してしまったのでした。。






歌舞伎役者の言葉に学ぶ、日本舞踊の「見る」振りのこと。

山を望むとか、
お花見をするとか月を眺めるとか、
周りの景色を見渡すとか。

日本舞踊には、「見る」振りがたくさんあるなぁと思います。

その見方もいろいろあって、
何かに気付くときの見方があれば、
物思いにふけってぼんやりと見ることもあり、
もちろん眺めを楽しむ見方もあり。

こんな記事をなぜ書き始めたかというと、
自分が今、「見る」振りで悪戦苦闘しているからです。。笑

そんな踊りの「見る」ことについて
複数の歌舞伎役者さんが同じようなことを言っていらして面白かったので、
半ば自分のためにまとめます!


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まず十代目・坂東三津五郎さん

『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』(長谷部浩 編、岩波現代文庫)の中で
以下のように述べていらっしゃいます。

「…たとえば富士山が出てきたときに、
もちろん踊り手には、富士山が見えていなければいけないわけです。
演者が見ていないと、お客さまには
絶対見ているように伝わりません。」(p.67)


さらに、その富士の大きさや場面がどんなものなのか、
振りをつけた人はどんな富士を見ていたのか。

自分の中に、そういうファイルをたくさん持っておくべきだ、というお話。

この他にも、『京鹿子娘道成寺』を踊るときに
実際に和歌山の道成寺を訪れてみて、
初めて分かったことのお話も興味深かったです。(p.81〜82)

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***

それから、四代目・市川猿之助さん

この本が好きすぎてしょっちゅうこのブログに登場するのですが(笑)
『舞うひと』(草刈民代、淡交社)の中にこんなお言葉がありました。

「たとえば『北州』という作品で、
待乳山という上野の山から下を望む所作があるんです。
普通「山から下を望む」というと下を見るけれど、
実際の待乳山はとても低いから、
下というよりも遠くをみるような振りになるわけです。
(中略)
ですから、その山を知っているかどうかで表現が変わる。…」(p.176)

やはり、踊る上で実際の景色や風俗を知っていることの重要性
説いていらっしゃいました。

***

「見る」ことに限定した話ではなくなってきますが、
同じ『舞うひと』の中で
五代目・尾上菊之助さんがおっしゃることも
本質は同じだと思っています。

「…そこにいる女性は若いのか年増なのか、
「散りかかる」花はどんな花なのか……
膨大な情報が「散りかかるようで」の振りにこめられているんです。」(p.74)


やはり、踊りながら実際の景色を「見て」いらっしゃる

この「膨大な情報」を振りにこめるには、
そもそも年増って何歳くらいなの?とか、
その花がどの花だったらどうするの?とか、
前提となる知識が必要不可欠なんですよね。


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***

「見る」振り(に限らず全てにわたって言えることですが)に重要なのは、
知識想像力だということが何となく見えてきました。

その時代に見えていた景色や、文化、人々の動作…

そういうものの知識を、少しずつつけていきたい。

さもないと、想像するにもできないのです。

踊りの舞台となるどこかに行ってみるでもよし、
江戸の文化をもっと学んでみるもよし。

でも、そう思うと日常の全ての動作が
踊りの糧になる
ような気がしてきます。

自分がこういうものを眺めるとき、どんな感じだろう。
どんな景色を見てきただろう。

一つ一つの経験や、何気ない一瞬も、学びになりそう。

と言ったところで、
私が立ち止まっているのはもっと初歩的・技術的な問題だったのですが笑
(「レベルが違う」どころではないほど違いすぎて解決せず)

いつかは!いつかは上手くなりたいから!!
今から意識するに越したことはないんですってば!!笑

お三方のお言葉を胸に、お稽古頑張ります。


 
プロフィール

わこ

◆首都圏在住╱平成生まれOL。
◆大学で日本舞踊に出会う
→社会に出てから歌舞伎と文楽にはまる
→観劇5年目。このご時世でなかなか劇場に通えず悶々とする日々。
◆着物好きの友人と踊りの師匠のおかげで、気軽に着物を着られるようになってきた今日この頃。

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