多分これは、洋舞の世界も全く同じだと思うのですが。。
凄い方の踊りを見ていると、踊りは言語だな、と感じます。
体の動きが、まるで語っているよう。おしゃべりのときもあれば、腰を据えて物語るときもあり。
ともすれば、言葉では補いきれないところまで伝わることだってあるのではないかと思います。
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エピソードを2つ。
まずは分かりやすい話で、以前この記事にも少しだけ書いたのですが、
海外の舞踊家と日本舞踊家とが一緒に舞台を作ったとき、
何も言わなくてもお互いが何をしているのか分かった、という話がとても印象に残っています。
日頃から踊りを通して「語って」いる方々同士だからこそ、
「言語」を介さなくてもコミュニケーションが取れたんですよね。
その意味で、踊りはお互いの考え方や文化を否定することなしに交わることができる、貴重な交流の手段の一つなのではないかと思います。
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もう一つは、私が踊りの物語世界に完全に入り込んでしまったときの話です。
とある舞踊会にて。
踊りの内容は、ある武将が忠義を貫くために、まだ年端もいかない我が子にすべてを託し、負け戦と分かっている戦いに向かっていく、というもので、
この我が子との別れ、圧倒的不利な中での怒濤の戦いぶりが見どころとなるのですが(これを一人で踊ります)、
私は途中から、踊っている方が物語の主人公である武将にしか見えなくなってしまったのでした。
我が子と別れる辛さを必死に抑える、一人の人間としての弱さと強さ、
自らの最期が近いと分かりながら、戦いに立ち向かっていく覚悟、
「これが己の人生だ」というのが物凄い圧をもって伝わってきたのです。
舞踊の公演でも大向うの声がかかります。
その声に違和感を覚えてしまうくらい「本物」でした。
今踊っているのはこの人じゃなくて、主人公本人に違いないのに、
なんでこの人の名前が聞こえてくるんだろう、という感じ。
それくらい真に迫るものがあったし、終わったあとはしばらく呆然としてしまいました。
これ以上何も見たくない、この感情に何も上書きしたくない、と思うくらい圧倒されて、何日も余韻に浸りました。
言葉で語らずとも、これだけ雄弁に、踊りは物語ることができる。
そこに性別も年齢も関係ないのです。
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「言葉」の限界や無力さに悔しくなることもある中で、踊りに出会えたことは一つ幸せだな、と思います。
自分にとって踊りが言語になり得るのは、まだまだ気が遠くなるほど先の話です。
それでも一つの表現の可能性を、大事に育てていければと思います。