ほんのり*和もの好き

歌舞伎や文楽、日本舞踊、着物のことなど、肩肘張らない「和もの」の楽しみを、初心者の視点で語ります。

2019年02月

気になる演出ピックアップ!#1 浅葱幕


地味なシリーズになりそうな気配はありますが。笑
歌舞伎や文楽の演出で面白いなぁと思ったものについて、初心者の目線で語っていきたいなという企画です!

これは初心者の特権だと思うのですが、
見慣れてくると当たり前のものでも、最初のうちはものすごく素直に感動できるのです。笑 

そんな本シリーズ、第1回は「浅葱幕(あさぎまく)」

一年ちょっと歌舞伎や文楽を観ていて、毎度この「浅葱幕」というものに感動を覚えるので、記事にしてみようと思い立ちました。
(ちなみに日本舞踊の舞台でも使いますよ!)

【浅葱幕とは】
「舞台前面に吊り下げる浅葱(水色)一色の幕。振落し、振かぶせの手法で、大道具や俳優の姿を一瞬に見せたり、隠したりする効果をあげる。…」
(『歌舞伎事典』昭和58年、平凡社)

定式幕や緞帳の向こう、舞台の上に、水色の布が吊られます。
『歌舞伎の解剖図鑑』(辻和子、2017年、エクスナレッジ)によれば、「『光に包まれた向こうに何かがあるが、まだ見えない』状態を表」すとのことです(p.34)

歌舞伎の解剖図鑑 イラストで小粋に読み解く歌舞伎ことはじめ [ 辻和子 ]

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チョン、という柝の音を合図に、この水色の布=浅葱幕がぱっと振り落とされます。

*** 

定式幕(いかにも歌舞伎っぽい三色ストライプのあれ)や緞帳と、浅葱幕とのもっとも大きな違いは、「舞台の現れ方」だと思います。

定式幕や緞帳は、徐々に幕が開いていきます。
それに伴い、舞台は端から、あるいは下から少しずつ見えてくるわけです。

しかし浅葱幕の場合、幕が振り落としになると「一気に」舞台全体が目に入ります
見えなかったもの、音だけ聞こえて焦らされていたものが、パッと目の前に広がるのです。

正直、浅葱幕にはちょっぴり違和感があります。
 
本来幕が開いてすべてが見えているはずの舞台の上に、それほど舞台の色に馴染んでいるとも思えないような水色の布が張られている。
初めて観たときは、「いささか雑では…?」と思ってしまったくらい。笑

しかし、この演出効果は文字通り目を見張るものがあるのです。

幕がすでに開いた状態の、その先にある幕。
芝居がもうすぐ始まるのは分かっていて、浅葱幕の向こうに何らかの世界が広がっていることも分かっている。

そして、何なら演奏者は舞台上に見えている。

音は聞こえるのに、見たいものが見えそうで見えない

この「焦らし」が溜めになって、パッと幕が振り落とされたときの感動が強まるのです。

そして、浅葱幕の向こうに広がるのは、大概が華やかな舞台

豪華絢爛な建物だったり、隅から隅までずらりと並んだ粋な役者たちだったり、まぶしく降りしきる雪の世界だったり…

これが「徐々に」見えたのでは、感動するにしてもそこまでではないのではないかと思うのです。
急に、いきなり目に飛び込んでくるからこそ、衝撃を受けるのです。 

例えて言うなら「トンネルを抜けたら目の前にどーんと富士山があった!」みたいな。

隠されていたものが、急に目に飛び込んでくる。
この勢いとギャップに、否応なく胸が躍るのです。

***

ちょっと脇道に逸れますが…

歌舞伎の幕のことを考えるとき、私はいつも紙しばいを思い出します。

紙しばいは、紙を引き抜くスピードが細かく指定してあるのです。
「一気に」「ゆっくりと」「ここで半分まで引き抜く」などなど…

これ、まさしく幕と同じだな、と。

紙しばいはその名の通り「紙」で行う「芝居」であって、
あの絵を引き抜いていく行為は、各場で幕が引かれ、また開けられるのと近いのではないかと。

一気に引き抜いたり、半分まで引き抜いたりするのなんて、とても浅葱幕っぽいのではないのでしょうか。

幼い頃から「かみしばい」という5文字として認識していたけれど、よく考えると「紙芝居」であったなぁと、芝居を観るようになってふと気付いたのでした。

***

さて、そんなわけで語ってみました浅葱幕。
初めて歌舞伎や文楽に行く方は、舞台上に水色の幕がかかっていたら、ちょっとそのまま舞台に注目してみてください。

きっと息を飲むような瞬間が待っています。


「名月八幡祭」観てきました!~二月大歌舞伎 夜の部・初心者の感想

歌舞伎座2月の大歌舞伎、夜の部・三幕目「名月八幡祭」
観たのはちょっと前になるのですが、今更ながら感想をば。

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ポスター一番左、尾上松緑さん縮屋新助が主人公です。

もう見るからに「いいやつ」そうでしょう。
田舎の素朴な青年な感じが写真からでもこんなに伝わるのに、ラストは衝撃です。

***

初心者でも分かりやすい演目ではあります。
「暗闇の丑松」(感想はこちらと同じく、舞台は江戸ですが台詞は現代語です。
そのため、展開を理解するのに苦労はないはずです。

ただしなかなか気ぶっせいな話ではあります。
今月のラインナップは一体どういうことなのか。。文楽も含め。。

***

新助、のっけから本当にただただ真面目で熱心な好青年なんですよ。
とっても正しいやつなんですよ。

「祭を見てから故郷に帰ればいい」という魚惣中村歌六さん)の言葉にためらう理由も、田舎の母が気がかりだから。
そういう優しいところがあるんです。

これぞ、と思ったのは美代吉坂東玉三郎さん)の家に上がらせてもらったときの、ふて寝した美代吉への態度。
枕に手拭いを当てたり、ためらってから自分の羽織を脱いでかけてあげたり、
そういう一つひとつのことがすごく丁寧で、ウブなんです。

でも世慣れた美代吉は、そういうところがちょっとつまらないんだろうなぁと。
かわいいと思う部分もあるのかもしれないけれど。
きっともっと遊び馴れた男の方が、気楽でいいんでしょうね。

だから三次片岡仁左衛門さん)みたいなダメ男といい仲なのです。

三次と美代吉は、片岡仁左衛門さんと坂東玉三郎さんのいわゆる「にざたま」コンビ。
何なんでしょうあの安定感。

三次はいかにも軽い男で、まるで玄関などないように、あるいは自分の家に帰るかのように美代吉の家にやってきては、圧倒的軽さで金をねだります。

家の前で行ったり来たり逡巡する新助とは対照的ですね。
多分、三次だったら迷わず美代吉に自分の羽織をかけて、ついでに自分も隣に横になることでしょう。

一方の美代吉もなかなかの遊び好きで、みんなにいい顔をしてしまう。
それは「その場をいい気持ちで過ごさせたい」という美代吉なりのサービス精神なのかもしれないけれど、あまりに思わせ振りなことをしすぎてしまいます。無意識の罪作りですね。

魚惣の家の前を船で通りかかるところなんか、最高にいい女です。
新助に調子のいいことを美しい声で、粋な姿で言っておいて、自分はこのあと三次とサシで飲むんですよ。笑

★ちなみに美代吉の玉三郎さん、小道具を持つ手の美しさにも注目です。どの瞬間を写真に収めてもきっと絵になるに違いない。

そんな二人なんで、気の合うところもあるのでしょう。

新助を袖にしたあとの二人だけの場面、あれはいけないですね。
ああいう修羅場を共有してしまったら、二人は深みにはまって抜け出せなくなる。
そんな関係性が見えるような、どうしようもない場面でした。

この裏切りの場面、 三次の新助への言葉「お前だまされてんじゃねぇか?」はひどい!
お前は、お前だけはそれを言っちゃいけないよ…! 

一方の新助、茫然自失で花道を去っていきます。
何てことをしてしまったんだろう、ものを知らなかったばっかりに。

泣きに泣いて我を失う新助に、魚惣のかける「しっかりしろいっ!」という一喝が痺れますかっこいい。頼もしい。

この芝居のベストカップルは確かに三次と美代吉かもしれませんが、
個人的に激推ししたい燻し銀江戸ッ子カップルがこの魚惣の夫婦
魚惣中村歌六さん魚惣女房お竹中村梅花さんです。

この二人の会話が何だかとても好きでした。
いつもこんな風に、こんなテンポで言葉を交わしているんだろうなぁ、という感じ。
お互いがどんな言葉にどんな反応をするのか、長年かけて知り尽くしてきたのでしょうね。

そして、おそらくどちらもとても面倒見がいい!

喧嘩っ早くて立ち直りも早い、還暦を迎えた生粋の江戸ッ子・魚惣と、その魚惣に呆れながらもよく付き合うお竹大好きです!!

「とんだ奴にしっかかってしでぇ目に…」
炸裂する江戸弁は必聴。笑 

***

さて、ラストは狂気の沙汰ですね。。

新助、戻っておいで、と観ていて辛くなりました。
あんなやつじゃなかったのに。こんなはずじゃなかったのに。

根が純粋すぎたのでしょうか。
前半の新助の印象があまりにも「素朴で真面目ないい子」だったので、より一層辛い。

最悪の事件が起きる直前、ちょっと予期せぬところから新助が現れたとき、思わず客席で「ひっ」とおののいてしまいました。

もう戻ってこれないところまで来てしまった新助。
すっかり人の変わった表情と、花道での笑いの恐ろしいこと。。 

***

ああいう凄惨な場面と祭りの取り合せって、『夏祭浪花鑑』でも思いましたが、異常な高揚感をもって進みますね。

もともと「祭り」自体が持っているテンションの高まり。
人の自制が利かなくなるのに、「祭り」の持つ浮ついた感覚が大きく影響しているのではないかと。

観ているこちらも、舞台上の華やかな祭りの様子に、知らず知らずのうちにきっとふわふわしているのです。

そこに、怒涛のごとき展開がやってくる。

終演後は膝が震えました。笑

***

観劇当日、劇場を出たら外は雨。
素晴らしく気鬱な帰路でした。。
 

【歌舞伎初心者向け】ざっくり予習する「熊谷陣屋」

2019年2月の歌舞伎座で上演中の「熊谷陣屋」。
素晴らしかったのでいろんな人に勧めたいと思いつつ、
何せ話が分かりにくくて、「歌舞伎は初めて!」という方にはなかなかハードルが高いようにも思えます。

そんなわけで、今回こんな記事を書いてみました。

目的はあくまで「初めて歌舞伎を見るような方がざっくり予習できる」というところなので、
芝居好きの方からしたら「熊谷陣屋を汚すな!」というレベルかもしれませんが、悪しからずご了承ください。

(歌舞伎公式サイト「歌舞伎美人」こちらに、今月熊谷を演じていらっしゃる中村吉右衛門さんのインタビューがあります。とても興味深いお話なので、もっと深いところを知りたい方はぜひ。)



1.何が起きる芝居?


源氏方の武将・熊谷次郎直実が、「平敦盛を討った」と見せかけて、実は我が子を身替りにして敦盛を救っていた、という話。

戦乱の世の中、16歳の我が子を手にかけねばならなかった熊谷の、無常を悟りながらも抱える深い悲しみが胸を打ちます。

2019年2月の歌舞伎座公演では、上演時間は約1時間25分です。 

★『平家物語』の「敦盛最期」とは違う展開なので注意です!敦盛生きてます! 

2.お話の前提


この場面を最も分かりにくくしているのが、誰も真実を口外できないところ。
誰のセリフにも出てこない「討たれたとされている平敦盛は生きていて、熊谷の一子・小次郎がその身替りとなった」という事実が、最も重要なところです。

敦盛は後白河院の御落胤であるため、絶対に殺してはならない存在なのです。

それからもう一点、源平合戦の時代が舞台であること分かっていると良いかと思います。
源氏が優勢、平家は滅亡まっしぐらです。  

主人公の熊谷や、途中で出てくる源義経をはじめ、舞台上にいるほとんどの人物は源氏方

途中でいそいそとやってくる謎のおっちゃん・弥陀六(実は平宗清)は、平家方です。


3.注目すべきもの


【最初から舞台にあるもの】

■制札(せいさつ、桜の横にある立て札)

書かれているのは「一枝(いっし)を伐(き)らば一指(いっし)を剪(き)るべし」という言葉。

「枝を一本切るならばその指を一本切る」というのが表面上の意味ですが、
その真意は「花の枝(=平敦盛)を切らずに自分の指(=熊谷の息子・小次郎)を切れ」、つまり「自分の一子を身替りにして平敦盛を救え」というもの。
これは源義経による命令です。
救う敦盛は平家ではありますが、先述の通り後白河法皇の子供であるため、絶対に殺してはならない存在なのです。

【途中で出てきたら注目!】

■首桶(くびおけ)

熊谷が義経に持ってくる円柱型のもので、中には切り首が入っています。

これは敦盛の首と見せかけた小次郎の首

中身を見た女性陣(敦盛の母と小次郎の母)は、敦盛が討たれたと信じきっていたのに中から小次郎の首が出てきたので動転してしまいます。

しかし、あくまでこの首は「敦盛の首」としなければならない。
偽首だと他の人に知られてしまったら大変ですから、最後まで「小次郎」という名前は出ず、この首のことは全員が「敦盛」と呼び続けます

だから分かりにくいのです。。

■鎧櫃(よろいびつ)

義経が弥陀六(途中で出てくるおっちゃん)に渡す黒い箱。
弥陀六が背負って帰ります。

中に入っているのは、なんと無事だった敦盛その人
しかし敦盛が生きていると他の人に知られてしまってはならないので、この中身もひた隠しにされます。

だから分かりにくいのです。。


4.注目すべき人物


◼熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)

袴姿で花道から登場、一度引っ込んでから出陣のための装束で再登場し、最後は出家のための墨染の衣装です。
舞台では、主に陣屋の中の真ん中か、向かって左側にいます。

この物語の主人公で、
敦盛を救うために我が子・小次郎を討ち、その首を義経に示します。

■相模(さがみ) 

舞台向かって左側にいる女性。
熊谷の妻であり、殺された小次郎の母です。
我が子の無事をずっと祈っているのですが、予測しない事態で息子を亡くし、動揺が隠せません。

■藤の方(ふじのかた)

舞台向かって右側にいる女性。
討たれたと思わせておいて実は助かっていた敦盛の母です。
我が子が死んだと思っていたところからの生存確認ですから、相模と対照的な運命ですね。。

熊谷・相模夫婦は過去、この藤の方に窮地を救ってもらったという恩があります。

◼弥陀六(みだろく)実は弥平兵衛宗清(やへいびょうえ むねきよ)

途中で舞台右手からいそいそ出てくるおっちゃん、に見せかけて実は平家方の武将・平宗清。

以前幼い頼朝・義経兄弟を助けたことがあり、そのせいで平家が衰退してしまった、と悔やんでも悔やみきれない思いがあります。
しかしこの恩を忘れていない義経が、敦盛を彼に引き渡します

◼源義経

途中で出てきて、舞台右手で椅子みたいなものにどっかと座る人。

上述の制札で「小次郎を犠牲に敦盛を救え」と熊谷に暗示した人物です。

5.見どころ


いろいろとあると思うのですが、熊谷が旅立っていく最後の花道が最大の見どころだと思います。

出家の支度を整えて一人花道に立った熊谷の、「十六年は一昔。夢だ、夢だ」というセリフが有名です。 
16年というのは、小次郎の生きた年月。熊谷が小次郎と一緒にいた年月です。

深い悲しみを抱え、世の中の無常を悟り、笠でそんな世の中から自分をシャットアウトするかのように去って行く熊谷の姿は、胸に刺さるものがあります。

個人的には、首実検の場面で義経に首を見せ、迫る熊谷に一番心打たれました。


6.まとめ


「熊谷陣屋」が分かりにくいのは、何と言っても「推し量る」ことの多さだと思います。
大事な事実はこの場面では誰も口外してはいけないため、セリフから状況を判断することができないのです。 

理解の助けになってくれそうな竹本(舞台右手で語っている)も、なかなか聞き取りにくい。
そして内容も現代からすると想像がつきにくい。 

これをまとめている私自身も、理解し切れていないところがたくさんあるのだと思います。

でも、深い人間模様が描かれた、胸に刺さるお話です。
主要な登場人物全員がそれぞれの思いを抱え、このどうしようもない世の中を生きています。

ほんの少しでも「熊谷陣屋」の理解の助けになることができれば、これ以上の喜びはありません…!


関連記事▶︎「熊谷陣屋」観てきました!~二月大歌舞伎 夜の部 初心者の感想 
 

「熊谷陣屋」観てきました!~二月大歌舞伎 夜の部 初心者の感想

2月の歌舞伎、最後に観たのは「熊谷陣屋」
劇場の空気が張り詰める、緊張感のある素晴らしい一幕でした。

感想を語ってみたいと思います!




■初心者でも楽しめるのか?


正直、初心者向けとは言いにくいと思います。

「寝てしまった」「全く分からなかった」という声が聞こえてきたり、
芝居の後に「こういうこと?」と確認し合う内容が全然違ったり、
涙せきあえずという感じの方の隣にキョトンとした顔の方が座っていたり。
おおよそ幕見席はそんな感じでした

かく言う私自身、聞き取れないところも多く、うつらうつらしてしまったところもあり、筋書がなければなかなかしんどい1時間40分だっただろうなぁ、と思います。

1年半前、2年前の自分が観て、ちゃんと感動できたか?
そう聞かれれば、ちょっと自信がない、何ならほとんど寝てしまったかもしれない、というのが正直なところです。
(とはいえ、最後の花道は思うところがあったに違いないとは思います。)

そんなわけでなかなか「気軽に歌舞伎を!」という演目にはなりにくいと思うのですが、
もし少しでも歌舞伎に興味があって、物語を味わうことが好きなら、予習してでも観に行って絶対に損はない
今回の公演はあと数日しかありませんが…。 

何ともやるせない話です。
全然知らず言葉も交わさなかったお隣の席の方と、同じタイミングで鼻をすすり、涙を押さえながら観劇しました。

▼関連記事▼
【歌舞伎初心者向け】ざっくり予習する「熊谷陣屋」 


■感想


冒頭にも書きましたが、とにかく劇場全体の緊張感には凄まじいものがありました。

熊谷次郎直実中村吉右衛門さん。 

吉右衛門さんの熊谷陣屋は一度テレビで観ていましたが、生で観るとやっぱり空気感が全然違う。
テレビでは映し切れないところ、花道をゆっくりと出てくる背中に滲み出す重さとか、どうしようもなさとか、最後の花道の孤独感とか、
そういったものが、舞台からあんなに遠い4階まで広がってきました。

***

花道から登場した熊谷は、本舞台にくると、陣屋に入る前にまず制札を読みます。
後の展開を考えると、この場面でのただならぬ心情が胸に刺さります。

いよいよ首実検となったとき、熊谷はこの制札を引き抜き、義経尾上菊之助さん)に示す。
この制札どおり、敦盛の首を取った。制札の真意はこういうことですよね、自分は間違いましたか、と、我が子・小次郎の首を義経に見せる熊谷の勢い。

あくまで敦盛の首として扱う以上、「小次郎」とそのまま言葉にすることができないけれど、我が子を討った悲しみ、苦しみが痛いほど分かる場面です。

差し出された首を見た義経は、自分の真意が熊谷に伝わったと分かり、この小次郎の首を敦盛と認め、よくやってくれた、と首実検を終えるのです。

敦盛の首が入っているものだとばかり思っていた首桶から、我が子の首が出てきたのを見て、やりきれないのは熊谷の妻・相模中村魁春さん)。
我が子の首を掻き抱きながら涙ながらに語る相模ですが、やはり小次郎という名前を出すわけにはいかないため、最後まで「敦盛」と呼び続けるのが切なくてしょうがない。

そして登場する、何やら“普通のおっちゃん”っぽい人物・弥陀六中村歌六さん)。
(歌舞伎で普通のおっちゃんっぽい人物がいわくありげなシーンで出てきたら、それはもう絶対普通のおっちゃんではないのはお約束ですね。)
 
隠している本名・平宗清として義経に呼びかけられたときの、一瞬のためらい。それでも隠し通そうとするけれど、黒子でばれてしまう。
この弥陀六と宗清の変わり様がさすがでした。

義経は宗清としての述懐を聞いた後、もう一度「弥陀六」と呼びかけます。
宗清は違和感を覚えつつも、弥陀六として返事をする。
そして義経から渡された鎧櫃の中に敦盛の姿を認め、制札の真意を知り、敵同士でありながらの義経の配慮に感謝するのです。
 
この制札の真意を知った弥陀六の「かたじけない」という一言の重み

この場面、人間模様がとにかく深くて、圧倒されます。
本来最も重要な事実である「小次郎が犠牲となって、敦盛は生きている」ということは、セリフの中には一言も出てきません。
しかし、その場の全員がそれを言ってはならないとお互いに配慮しながら、心の奥底にある思いをちゃんと理解し合っている。 

「察する文化の日本」みたいな視点で言ってしまえば非常に「日本的な」場面かもしれませんが、
そういう括りで語りたくない、ずっしりとした人間模様のドラマです。 

そして一番の見どころ、最後の熊谷の花道。

「十六年は一昔。夢だ、夢だ…」という名台詞は、テレビでも見覚えがありましたが、こんなに重たかったか、と。

「夢」なんてすぐに割り切れるはずはなく、悔しくて、気持ちの行き場がなくて、どうにもやりきれないのが本当だと思います。

花道であたりを見るともなく見回す熊谷。
陣鉦の鳴ったあとなので、武士たちが多く行き交っているのでしょうか。
その中には、小次郎と同じような年の者もいるでしょう。小次郎が何事もなく生きていれば、当たり前のように育ったはずの年齢の者たちもいるでしょう。

そういうものが、否応なしに運命を変えられていってしまう世の中。 

無常を悟る、というところがテーマの物語ですが、その悟りは生半可なものではなく、
本当にどうにもならないことを、身を引き裂くような思いで体験しないと得られないのだと、
笠で耳を塞ぎ、目を伏せて花道を去っていく熊谷の姿を何度も思い返しながら、考えています。
 

「中将姫雪責の段」「阿古屋琴責の段」観てきました!〜国立劇場文楽2月公演第三部 初心者の感想

国立劇場の2月文楽公演、第三部に行ってまいりました!

『鶊山姫捨松』より「中将姫雪責の段」と、
『壇浦兜軍記』より「阿古屋琴責の段」の二本立て。
全体的に女性が責められるラインナップとなっております。

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雪責めから助け起こされる中将姫と

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無心に三味線を弾く阿古屋。左手の指にご注目!
※写真はいずれも筋書より。

それぞれの感想を綴ります。



*中将姫雪責の段


文楽の人形の、女性の美しさが好きです。
ちょっと角度が変わったり、目が閉じたりするだけで、全然違う表情になる。

今回の演目は、それを堪能できたな、と思います。

雪責の場面、私は今回下手側での観劇だったのですが、
ちょうど中将姫を助けにやってくる桐の谷(※中将姫に仕えています)の表情がよく見える位置でした。
桐の谷は吉田一輔さん
中将姫への惨すぎる仕打ちに心底腹を立てながらも何もできない悔しさが、人形の表情から伝わってきて、胸に迫りました。

ちなみにこの桐の谷、寒さに震える中将姫へ自分の着物を投げてあげるのですが、これがナイスパスなんです!
人形を遣うお三方の息の合い方がさすがですね。

そして何と言っても、吉田簑助さんの中将姫が圧巻です。

雪の中に薄着で引き倒され、打たれ、髪を引っ張られる中将姫。
寒さと痛みと、継母とは言え母である人物からの仕打ちに対する悲しみとにうちひしがれる、その様子があまりにもリアルで、何だかよく分からないけれどどきどきしてしまった。
 
見てはいけないものを見てしまっているような、
でも一挙手一投足から絶対に目を離せないような。

簑助さんは、昨年拝見した『夏祭浪花鑑』のお辰がとても好きでこの記事、このお辰はすぐに舞台からいなくなってしまうので、もどかしかったのです。
今回、こんなに簑助さんの人形を味わうことができたのがとにかく嬉しい。

***

この中将姫、どれだけ酷い目に遭わされても、継母である岩根御前を守るのですが、
その健気な語りのときに、胡弓の音が聞こえるのです。
胡弓は野澤錦吾さん細く澄んだ音が、この場面の切なさを増します

音楽面での工夫、興味深いです。

***

語りで興味深かったのは、「サァそれは〜サァサァサァ」の掛け合い。
歌舞伎でよく見るスピード感のあるあのやり取りを、あの速さで一人で語り分けるのか!と。
この場面は竹本千歳太夫さん。太夫さんって凄いですね…!


*阿古屋琴責の段


いやもう、これは本当に人生の財産になるなぁという感じでした。
桐竹勘十郎さんの阿古屋。

一度歌舞伎で観ている阿古屋(感想はこの記事
「三曲琴、三味線、胡弓を演奏する」という拷問にかけられる、一人の傾城の物語です。

阿古屋の詞(義太夫はセリフのことを「詞(ことば)」と言うらしい)にものすごく好きなところがあり、それを文楽の語りで聴きたい(そしてあわよくば床本を手に入れたいという思いと、
三曲をプロが演奏するとどんな感じなのか、そして人形がどうやって三曲を演奏するのか…
いろいろと気になる要素は最初から多く、とても期待していた演目ではあったのですが、

予想を遥かに凌駕しました。

琴責の場面だけに流されないようにしようと思いつつ、琴責があまりにも凄くて。

最初は琴。ちゃんと爪をつけるところから始まります
ちょっと身を乗り出し気味に、押さえる手を確認しながら。何で弾かされているのか分からないなりに没頭していく様子。
全てがものすごく精密です。

さて、この琴のあとの詞が私は大好きなのです。
阿古屋が景清との馴れ初めを語る部分。

「羽織の袖のほころび、ちょっと時雨の傘(からかさ)お易い御用。雪の朝の煙草の火、寒いにせめてお茶一服、それが高じて酒(ささ)一つ、…」

何となく顔を知り合い、些細な何でもないようなやりとりが、だんだんと深まっていく。
毎度思いますが、少女漫画のようだなぁ、と。
この始まりの何気なさが、今の別れの切なさを際立たせるような気がします。
日々の生活の中の、取るに足りない瞬間の幸せって、特別意識していないけれど、知らないうちにものすごく楽しみにしていたりするものだと思います。
その何気ない幸せを、知らないうちに失ってしまう哀しさ…

この床本が手に入ったのが嬉しくてたまらない。
好きなことばを身近に置いておけるって、何だか良いですね!

さて、琴に続き、阿古屋は三味線の演奏を求められます。

びっくりしたのですが、人形も指が動くんですね!
左手がちゃんとツボを押さえるように、指先まで独立して動くようになっているのです。
それを右手に合わせて、本当に弾いているように遣うのは左遣いさんも凄い
詳しくないため、失礼ながらどなたがなさっていたのか分からないのですが、ぜひ筋書に書いていただきたいです。

三味線を弾きながら、思い溢れて手が止まってしまう阿古屋。
その崩れる形の美しさ。。

そしてとりわけ素晴らしかったのが、最後の胡弓です。
歌舞伎で観たときにも胡弓の場面が一番感動的だったのですが、文楽はまた違った感動があります。

とにかくまずもって、胡弓の演奏がすごい

劇場内に響き渡る、広がりのある音色。
抑え込んでいたものを一気に解き放ったかのようです。
もう阿古屋は迷いません。重忠の求めに素直に「アイ」と返して、凛と前を向いて、堂々と演奏します。

胡弓は、弦をはじいて音を出すタイプの琴や三味線と違い、弓によって音を出し続ける(音を長く伸ばす)ことができる楽器です。
それがまた効果的で、歌のようで、声にならない心の叫びのようで、素手でこちらの心を掴みにくる
思い出しただけで目が潤むほど良かった。

前を見据えて一心不乱に演奏する阿古屋を見ながら、
胡弓は、阿古屋の中で何かを超越した瞬間なのかな、と思いました。

三曲は鶴澤寛太郎さんなのですが、寛太郎さんが演奏されていると分かっているにも関わらず、そこにいる阿古屋が弾いているとしか思えないような強烈な一体感がありました。
自分が今何を聴いて何を観ているのか、一瞬分からなくなるような、いい意味で混沌とした時間。

凄いものを経験してしまった。

だからどうか、

後ろの岩永くんは静かにしていてほしい。笑
いや、胡弓に合わせて調子に乗る岩永(人形:吉田文司さん)、かわいいし大好きではあるのですが!笑


※追記※
どうやら阿古屋は左:吉田一輔さん、足:桐竹勘次郎さんだった模様です。


*まとめ


チケットを取れて本当に良かったです。

どうやら2月の文楽公演は三部制なので、二部制の公演よりも人がばらけて、チケットが取りやすいらしい。
文楽に興味があるけれどなかなかチケットが買えない、という方は、2月が狙い目かもしれません。

よくよく考えると女性としては看過ならない二本立てなのですが(笑)、
それはそれとして、本当に素晴らしかったです。文楽を好きになって良かった、あの空間にいられて良かった。

***

ちなみにこの三曲、それぞれの楽器に専用の手があるようで、演奏の場面になるときに付け替えるのだそうです。
琴のための爪のついた、親指から中指までが動くようになった右手、
三味線のための撥を握った右手、
三味線と胡弓のための、指を動かしてツボを押さえられるようになっている左手。

国立劇場のページに、阿古屋を遣った勘十郎さんのインタビュー動画があります(国立劇場サイトはこちら。とても興味深いのでぜひ。

ちなみに阿古屋の帯についている二羽の蝶は、勘十郎さん手作りだそうです。
昨年9月公演の『夏祭浪花鑑』でも、団七九郎兵衛の倶利伽羅紋紋は勘十郎さんによるデザインとのお話ですし、凄いですね…

人形の衣装を縫い止めたりするのも、人形の方が自らの手でしていらっしゃるようです。
人形を遣うとき以外の場面でも、手先の器用さが活かされていらっしゃるのですね!

プロフィール

わこ

◆首都圏在住╱平成生まれOL。
◆大学で日本舞踊に出会う
→社会に出てから歌舞伎と文楽にはまる
→観劇5年目。このご時世でなかなか劇場に通えず悶々とする日々。
◆着物好きの友人と踊りの師匠のおかげで、気軽に着物を着られるようになってきた今日この頃。

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