ほんのり*和もの好き

歌舞伎や文楽、日本舞踊、着物のことなど、肩肘張らない「和もの」の楽しみを、初心者の視点で語ります。

2019年12月

2019年 思い出の舞台(歌舞伎・文楽・日本舞踊ほか)


あっという間に年の瀬ですよー!!!どうしてこうも時の流れは早いのか。。

今年もたくさんの古典芸能の舞台に触れられたこと、心から感謝しています。
今回は、今年観た思い出深い舞台を思い返そうという企画です!


★以下、それぞれの演目名をクリックしていただくと感想記事に飛びます!

■歌舞伎


ほぼ毎月観に行きましたが(7月だけばったばたで行けず)、「2019年歌舞伎ベスト10」を挙げるとしたらこんな感じ(上演順)↓

熊谷陣屋(2月)
吃又(3月)
関の扉(3月※国立小劇場)
実盛物語(4月)
野崎村(4月) 
め組の喧嘩(5月) 
封印切(6月) 
沼津(9月)
寺子屋(9月)
市松小僧の女(11月)
蝙蝠の安さん(12月※国立大劇場)

※劇場表記なしはいずれも歌舞伎座

だーいぶ偏りはありますが。笑
どれも時間を巻き戻してもう一回観たい。本当に大切な、幸せな時間でした。

で、みなさん。
お気付きでしょうか。


そうです、11個あります。笑
10個絞り切った後に安さんが楽しげにやってきたので…世界の喜劇王に免じてお許しを…


■文楽


今年は「中将姫雪責」「阿古屋琴責」に始まり、
妹背山婦女庭訓」の通し、「嬢景清八嶋日記」、「艶容女舞衣」、そして今月の「一谷嫰軍記」と観て参りました。

劇場公演以外では、明治神宮で行われた「にっぽん文楽」屋外公演も印象的。
日高川」と「小鍛冶」を、間近で楽しんできたのでした。
これは嬉しい体験でしたねぇ…甘酒もおいしかった。笑 

「妹背山」や「一谷嫰軍記」のように、通しで作品に触れることができたのはとても貴重だったなぁと思います。
歌舞伎との発祥の違い、芸の違いを、改めて感じる機会となりました。

一つの物語として語られる芸能であった浄瑠璃と、役者の芸を観る歌舞伎。
何となく一括りで語られがちですが、楽しみ方が全然違うんですね。

また、通しで観ておくと、ピックアップされる各場面の味わいも大きく変わってきます。 

***

2月の中将姫と阿古屋は特に凄かったなぁ。
今でも思い出すとぞくっとします。

吉田簑助さんの遣う娘の人形はとんでもない濃密さで、すぐに分かります。
先日テレビを観ていた際も、あまりに繊細な動きの人形がいたので確認してみたら、やはり簑助さんでした。
妹背山の雛鳥も凄かったですが、私としてはこの中将姫がとにかく衝撃的で、たぶん一生忘れないだろうと思います。

妹背山の「妹山背山の段」も忘れられない。
ど迫力のサラウンド浄瑠璃と、舞台の上で命を懸けている人形たち…圧巻でした。

「日向嶋」(嬢景清八嶋日記)も良かった。私は文楽のこの雰囲気にノックアウトされたんだったなぁ、と思い出すような舞台でした。


■日本舞踊


大きい公演小さい公演ちょこちょこ観ました。

日本舞踊協会公演この記事)は、今年は一公演しか行けなかったのですが、テレビでも放送した「夕顔棚」が印象に残っています。
長年一緒に過ごしてきた夫婦ならではの、お互い何も言わずに分かるみたいな空気感や温かみ、気心知れた関係だからこそ出てくるおかしみ…
そういう全てを踊りで表現できるのって、すごいですよね。
思わず笑顔になってしまう踊りでした。

それから檜゚男ですよね!
あれは良かった。日本舞踊の手法で大体なんでも表現できる、という自由さ、楽しさが伝わってくる舞台でした。

感想は書きませんでしたが、流派を超えた男性舞踊家集団「弧の会」の公演「コノカイズム」も素晴らしかったです。
衣装をつけない素踊りで表現される、踊りの幅の広さ
衣擦れの音、力強く踏む音、声…男性群舞ならではの迫力に熱狂
本当に会場の温度が上がっていました
お近くで公演がある際には是非っ!!!!

歌舞伎のお弟子さんたちによる舞踊の会「ひとつなぎの会」も非常に印象深い公演でした。
衣装も道具もない手作りの会でしたが、踊りがとても丁寧で、観ていて本当に気持ちが良かった。 
来年も絶対に観に行きたい!
今年が第二回とのことでしたが、ぜひとも長く続いてほしい公演です。
ちょうど自分がお稽古していた曲も出ていて、そういう面でもとても勉強になりました。

それから、中村鷹之資さんと渡邊愛子さんご兄妹の舞踊の会「翔之會」
鷹之資さんの踊りの気持ち良さはもちろんのこと、愛子さんの「道成寺」は今でしか観られないようなエネルギーがあって忘れられません。


■その他


【狂言】

三鷹市の「東西狂言の会」に行ってみました。物心ついてからの初狂言!
いやぁ、楽しかったですねぇ。笑いました!
笑いの方向性って、そう大きく変わらないんだな、と思いました。
これ以来、テレビでも狂言を積極的に観るようになった気がします。

なお、この公演にご出演だった茂山千作さんは、今年9月21日に逝去されました。
素敵な舞台を拝見できて、本当に本当に有難いことでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。 


【女流義太夫】

今年はなんと、三味線と語りの体験にも行ってみたのです。

語りの難しさが!半端ではない!!!
何が求められていて、何を目指すべきか、そのために今何ができるのか…
最初の一歩すらどこにどう出せばいいのか分からず、こんなに何も分からない一時間半は人生で初めてだなぁと思いました。
多分ですが大学の数学科の講義に出た方がまだ理解できたんじゃないかと…(きっとそれも無理)

そんな経験をしてからの、「女流義太夫Special Live」。
竹本駒之助さんの語りと、鶴澤都賀寿さんの三味線です。
本当に鮮やかに、きめ細かく語られていくのを聴きながら、「物語る」ことの力を感じたのでした。
文章って、語られることによってこんなにも色彩を増すのか、という。

何というか、あんなにも難しいものを追究して、深い次元で芸能を成り立たせ続けていらっしゃる方々がいることに、自然と頭が下がるような思いでした。 


【素浄瑠璃】

そんな女義の経験から、ついに素浄瑠璃の会にも出向いてみました。
これまで文楽というと人形を観てしまいがちだったので、語りだけ聴きに行って飽きてしまわないか、ちょっと不安だったのです。

しかし全然そんな心配は不要ですね!
新たな楽しみを知ってしまったぞ!という感じです。笑
 
これも感想をアップし損ねましたが、国立劇場の「文楽素浄瑠璃の会」という公演でした。
竹本織太夫さんの「引窓」が素晴らしかった。泣いてしまいました。。

織太夫さんは、以前講演を聞きに行ったことがあり、そこから密かに応援しているのです。笑
去年観た「夏祭浪花鑑」の「長町裏の段」とか、今年の「日向嶋」(先述)もとても好きでした。

今まで人形メインで観ていた文楽ですが、義太夫の体験、素浄瑠璃の鑑賞を経て、語りそのものも以前より楽しめるようになった気がします。


■まとめ


ふぅぅぅ。
駆け足で振り返りましたが、これでもまだ全然足りないんだから、今年は充実した年だったのでしょうね。
健康に過ごせたこと、(ぎりぎりではありますが)金銭的な余裕があったこと、ありがたいことです。

来年も行ける範囲で無理なく、でも後悔なく楽しめたらいいな。
すでに観に行きたい公演がたくさん控えていて、嬉しい限りです。

***

本年も大変お世話になりました。
お読みいただいていることが、大きな励みと喜びになっております。
小さな拙いブログではございますが、今後とも何卒宜しくお願い致します。

それでは、どうぞ良いお年をお迎えください!


「一谷嫰軍記」観てきました!~国立劇場12月文楽公演 初心者の感想~


千穐楽から随分経ってしまいましたが。笑

東京で文楽を観られる月は絶対に観ると心に決めています。
文楽のチケットはすぐに売り切れてしまうので、今回も必死で取りました…。

さて、令和元年12月の演目は「一谷嫰軍記(いちのたに ふたばぐんき)
歌舞伎で「熊谷陣屋」の場面だけ観たことがあります。(感想はこの記事

通しとなると、同じ場面でもまた全然違う味わいがあるんだろうな、と思いながらの観劇でした。

で、実際その通りでした。笑

初めて通しで味わう「一谷嫰軍記」、そして初めて文楽で観る「熊谷陣屋」。
初めてづくしの感想です。

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今回の筋書の表紙・熊谷。かっこいい…!!!
 
***

以前 歌舞伎で「熊谷陣屋」を観たときに感じたのは、「この場面で誰も真実を語れないから分かりにくい」ということ。
きっと通しで観たら、流れが理解できるからもっと分かりやすいのだろうと思っていました。

しかし、通しでも敦盛と小次郎がすり替わったのは、知っていないと気付かない
「陣屋」で真実が語られるまで、ずっと敦盛が討たれたものとして観ていてもおかしくないのです。

「敦盛」とされている人物が、実は熊谷の一子・小次郎であると分かりながら観ていると、「組討」での熊谷と敦盛(実は小次郎)のやり取り、「陣屋」での熊谷と相模とのやり取りの一言一言が、全く別の響きで聞こえてきます。

結局分かりやすさという面では「熊谷陣屋」のみを観たときとそう変わりませんでしたが、歌舞伎とは別の深みと感動がありました。

***

通しで観たときに、やはり「熊谷陣屋の段」がクライマックスではあるのですが、個人的にはその二つ前の「組討の段」がとても好きでした。(太夫:睦太夫さん/三味線:清友さん)

『平家物語』では「敦盛最期」にあたる場面ですが、先にも触れた通り、この場面においての敦盛は「実は小次郎」、熊谷の一子です。

その二人が、親子であることを隠して戦い、熊谷が我が子を討つ。

最後まで凛と気高い敦盛(人形:一輔さん)と、悩み苦しみながら大きな選択をする熊谷(玉志さん)に抉られます。

熊谷、討ち取った敦盛の首を、何度も何度も見るのです。
ここでは小次郎のことは一切語られませんが、分かって観ていると切ない。

それを敦盛だと思い込んで死んで行く玉織姫(簑紫郎さん)にも、敦盛が本当は生きている、ということは伝えられない。
でもこの場面においては、玉織姫が「あの世で一緒に」という思いで旅立っていけるのは、唯一の救いかもしれません。

「エヽどちらを見ても莟の花」という熊谷の詞が刺さりますね。。
まだ咲いていない、咲くはずだった莟が、絶えなければならない世の中なのです。 

***

歌舞伎で「熊谷陣屋」を観たときは、この後の「熊谷桜の段」の途中あたりから話が始まっていたかと思うのですが違ったか。。(芳穂太夫さん/藤蔵さん)

歌舞伎で観ると、この陣屋に熊谷の妻・相模(簑二郎さん)や藤の局(勘彌さん)が来ている緊迫感がいまいち伝わりません。
しかしここまで観てくると、

・我が子・小次郎を討ってしまった熊谷
・それを知らない母・相模
・息子・敦盛が相模の夫・熊谷に討たれた藤の局(しかも最初は熊谷が相模の夫とは知らない)

という、それぞれに非常にぎりぎりのところにいる三人が揃う場面だと分かる。

歌舞伎で観た「熊谷陣屋」は、出だしからしてこんなに不穏な場面だったわけです。 

そこからの熊谷と相模のやりとり、先ほども書きましたがフラグに次ぐフラグで緊迫感があります。(織太夫さん/燕三さん)
小次郎の初陣が心配でならない相模と、武士である限り覚悟を持つべきだと厳しく諭す熊谷。相模に心の準備をさせているかのようです。
最後まで小次郎の死ははっきりと語られないものの、ここでじわじわとその事実が見えてくるんですね。

で、(一気に場面を飛ばしますが)事実が分かったあとが本当に切ない。(靖太夫さん/錦糸さん)
相模、我が子をたくさんたくさん抱くのです。
「持つたる首の揺るぐのを頷くやうに思はれて」なんて凄い詞章ですよね。。
本当にこの辺り、語りと人形とが三位一体となって哀切極まれりという感じです。

この後に、やっと敦盛と小次郎を入れ替えた真実が、小次郎の母・相模に向かって語られます。
全く筋を知らずに観ていたら、ここで初めて、「陣門」からの一連の流れの意味が分かるのです。
この作品の初演のときって、かなり衝撃的だったのではないかなぁと思います。。

さて、文楽の公演はやはり言葉を「聴く」ことにもかなり注力するわけで、字幕も出るので尚のことなのですが、
熊谷が出家するときの「十六年も一昔〜」に続く地の文が美しくてですね。。

「ほろりとこぼす涙の露、柊に置く初雪の日影に融ける風情なり」

というところなのですが、なんともここが切なくて。
泣きつく相模に対してずっと強い態度を取っていた熊谷ですが、当然ながら本音はこれなんですよね。
思わず「ほろりと」こぼれるその涙が見えるような表現だなぁと。

怒涛のドラマに翻弄されていると、突然こういう美しい言葉が混じり込んでくるので気が抜けません。笑

***

ここでちょっと方向性を変えて、歌舞伎との比較をば。
飛ばしてしまった場面も掘り返しますよ!笑

歌舞伎の大きな見せ場である「制札の見得」は、文楽でもほぼ同じ形でありました(というよりも、文楽の形を歌舞伎が持ってきたという順序でしょうかね)
熊谷の人形(玉志さん)、黒地に金の鎧で動きも良くて、とてもとてもかっこいいのですが、その極みがやはりここだなという気がします。

もう一つ、歌舞伎での熊谷の大きな見せ場として、最後の花道の「十六年は一昔、夢だ、夢だ」という台詞がありました。
しかし、文楽では意外とこのあたりがさっぱりとしていた印象。この台詞のあとにも、弥陀六や義経とのやりとりが続くんですね。

そして謎多き石屋・弥陀六。
この人が「一枝を伐らば一子を切る」の意味を理解したときの「忝い」という一言が、歌舞伎ではかなり重かった気がするのですが、これも文楽の方はあっさり進むなぁと思いました。

この二つを通して、歌舞伎の演出は役者の芸を見せるものなのだな、というのを再認識した次第。
本来であれば、一つの台詞のうちの一部分であったほんの一言を、「ここを見てくれ!」という役者の見せ場に仕立て上げて盛り上げていくんだなぁと思いました。

弥陀六は歌舞伎の方で歌六さんがなさったのも大好きだったのですが、今回もやっぱり良かった。
人形は文司さん、弥陀六としての軽さと、平家の武士としての重厚感がとても好きでした。
この二面があるから弥陀六という人物は面白いなぁと思うのですが、同一人物でこの軽さと激しさを語り分ける靖太夫さん、そして三味線の錦糸さんの床にも心を掴まれました。。
私、弥陀六好きなんだろうか。笑

***

以前にもこの記事に書きましたが、物語そのものを味わいたいときは、私は歌舞伎より文楽の方が好きなのです。
今回観てみて、改めてそう感じました。

歌舞伎で観た上で、同じ演目の文楽も観てみて初めて分かる二つの芸能の魅力。
双方の楽しみ方が、また一つ深まったような気もしています。嬉しいことです。

貴重な機会と、心に刻み込まれる舞台を観られた幸せで、今回の文楽公演も大満足でした!

次の東京での文楽公演は、2月の国立劇場(公式はこちら)。
2月の公演は3部制なので、比較的チケットが取りやすいと言われています。
どれも歌舞伎で観たことのある有名な演目ばかりなので、またまた楽しみが増えております。

【関連記事】
「熊谷陣屋」観てきました!~二月大歌舞伎 夜の部 初心者の感想
【歌舞伎初心者向け】ざっくり予習する「熊谷陣屋」


 

「蝙蝠の安さん」(国立劇場12月歌舞伎公演)観てきました!〜初心者の感想〜


2019年の観劇納めは、国立劇場の“チャップリン歌舞伎”「蝙蝠の安さん」

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松本幸四郎さん扮する蝙蝠の安さん。チャップリンらしさもありつつ、頰には蝙蝠の刺青が。

チャップリンの映画「街の灯」を元に制作された作品です。
主人公の「蝙蝠の安さん」は、歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけ うきなのよこぐし)」に登場する「蝙蝠安」に見立てられていて、
「街の灯」を翻案した木村錦花が、チャップリンをそのまま歌舞伎に持ち込むのではなく、すでに馴染みがあったこのキャラクターを当てたのだとか。

で、

これがとても良くてですね!!!

12月の歌舞伎界隈はナウシカが話題をかっさらっていたのですが(私はチケット争奪戦に破れて行けず)、チャップリン歌舞伎も一捻りあるように見えて、しっかりした世話物の歌舞伎でした。

ぜひ再演してほしい!!!

以下、印象に残ったことなど語ります。


***

風来坊の安さん松本幸四郎さん)は、ある日花売りの娘・お花坂東新悟さん)に恋をします。

しかしこのお花、病気のために目が見えない。
不憫に思った安さんは、お花の勘違いをいいことに己の身分を裕福な旦那と偽って、彼女から毎日気前よく花を買っていくのです。

この金持ちだと思い込ませる術が上手い。
通りすがりの駕籠を、自分を迎えに来た駕籠のように見せかけたりとか、
一人二役で自分と駕籠かきを演じ分けて、あたかも駕籠で来たかのように聞かせたりとか(笑)

でも、この「お花は安さんを金持ちだと思っている」という背景があるから、ラストが生きるんですよね。後でまた触れます。

※ちなみに原作はもちろん駕籠ではなく、高級車らしい。翻案見事ですねぇ…!


今年 数々のお芝居で発揮されてきた幸四郎さんの喜劇役者っぷり、この時点ですでにだいぶ会場を包んでおります。笑

新悟さんのお花は、落ち着いた声音で、絶妙な薄幸感
その中にも気の優しさが見えて、しんみりと良いです。


安さんはこの日、もう一人出会いがありまして、それが上総屋新兵衛市川猿弥さん)。
奥さんを亡くして落ち込み、川に身を投げようとしているところを、安さんが救います(救うまでがまた楽しいんです、ドリフのような展開で結局どっちがどっちを救ったのやら…笑)

新兵衛はすっかり安さんを気に入り、自らの屋敷に招いて盃を重ねるのですが、
酒癖が悪くて朝になるとすっかり忘れ、安さんを追い出すという。笑

この新兵衛、完全なるへべれけで寝入ったにもかかわらず、寝起きのすっきり感が凄いんですよ。笑
全くお酒を引きずってない。声も良ければ動きもキレる。
ただし昨夜の記憶はすっぽり抜けているから厄介。笑

猿弥さんの笑いのセンス…!
このあともずっとそうなのですが、安さんと新兵衛のやり取りが軽妙で、良いように笑わされます。笑
どこまでアドリブなんでしょうね…?


ある日 お花の住む長屋にやって来た安さん。
(この長屋の住人がなかなかしょうもなさそうなんですが(笑)、とりあえず中村東三郎さんの熊八が活きが良くて好きでした)

なかなか声をかけられずにいるうちに、お花とその母・おさき上村吉弥さん)、大家・勘兵衛大谷友右衛門さん)の話を家の外で立聞きする流れに。

それは「眼病を治せる医者がいるが、五両かかる」という話。
母子二人暮らしで収入も少なく、家賃すらままならない中で、五両など出せるはずもなく。
気丈に振る舞うお花を前に、母おさきは泣き崩れます。

この様子を見て、安さんは何とかしてお花を助けてやりたいと心に決めるわけです。


この場面、出てくる人みんな優しくて温かい
「自分が病気をしたばっかりに」と嘆く娘・お花を優しく慰める母、
二人の家計事情を飲み込んで融通を利かせつつ、何とかお花に良い情報を持ってきてあげようとする大家。
こういう場面があるから、お芝居全体が締まるんだなぁと感じました。


さて、安さんは何とかして五両を手に入れようと、まずは賭け相撲に挑戦してみます(ここの原作はボクシングらしい笑)

このあたりはもう、目に見えた展開なんですが、ただただ役者さんたちの動きを楽しむ場面。
行司さん坂東彌風さん)も実はいろいろ楽しいことやらかしてます。笑

案の定賭けに負けた安さんが、最終的に頼るのはやはり新兵衛です。
酒が入った新兵衛、気前よく五両が入った紙入れを安さんに渡します。

が、

思い出してください、
彼は酒が抜けると全てを忘れるんです。

朝になってみれば、やっぱり安さんが泥棒扱いされる羽目に。
しかし安さん、どうにかしてこのお金をお花に渡したい。
必死で逃げ回り、何とかかんとかお花に行き合います。

いつものように花を買い、そのお代として、お花に五両の入った紙入れを握らせるのです。

自らの治療代を工面してくれたと理解したお花の、ぱぁーっと晴れるような表情!

この後ろで、実は安さんが捕まっているのです。
しかし、追っ手の「御用だ!」という声を「しっ!」と黙らせる安さん。
自分の今後より、お花の幸せを何よりも大事に思っているんですよね…それがこの一瞬で分かって、ぐっときました。
ここまでで一番好きなところ。


季節はうつろい、重陽の節句。
花屋の店先は菊の花で賑わい、横には銀杏が美しく色づいています。

まだお花は舞台に出ていませんが、色彩豊かな舞台から、お花の見る世界が変わったのが感じられます
(この場面で出ている上村吉太朗さんの茶屋娘がかわいらしかった!)

人の賑わいの中、現れる安さん。

自分の方を見つめる奇妙な風体の男に、お花はちょっとどきまぎしつつも、お茶を出したりなんだり、隔てなく優しく接します。

明日旅立つという目の前の男に、菊の花を抜き取って、選別にと差し出すお花。
安さんの方に歩み寄って、花を握らせます。

その手の感触で、はっと気付く。

お互い何も言わないまま、しばらく時が経ち、
安さん、核心に触れることのないまま、お花にお礼を言って去っていくのです。

ちょっともう私ここで涙腺崩壊してしまった…


お花の中で、「良くしてくれたあの人」は裕福な旦那のはずだった。
それが、たった今自分が恵んでやる立場だと思っていた相手だったのです。

どんな気持ちだったろうなぁ。。
とても五両を出せるような人物じゃない。
それが、自分にしてくれたことの大きさ。

うーん、言葉で語れるようなもんじゃないですね。
あの空気感。決してハッピーエンドとは言えないけれど、優しい気持ちになれるラストです。


***

黒御簾の音楽も面白かった!

もとの映画を知らないのですが、きっと知っていたらもっと「あっ!」と思うメロディーがあったのだろうな。

日頃聞き慣れないような音の使い方を、聞き慣れた三味線で聴くのが新鮮です。
賛否あるかと思いますが、新作系の歌舞伎の面白みの一つだと思っています。 


***

何度も言いますが、ぜひこれは再演を重ねていってほしいなぁ。
クリスマスがご命日のチャップリン、もう「毎年この時期はこの演目」となってもいいんじゃないかと。 

本当にとても温かい気分で劇場を後にしました。

この安さんが私の観劇納めであり、奇しくもクリスマスイブ。
最高に合っていたと思います。
弾丸でチケットを取りましたが、決断した自分を盛大に褒めたいです。笑 


【日本舞踊】この3つを押さえれば上手く見えるのでは説


日本舞踊がとにかく好きで、お稽古場に居座っていることが多いのですが、年次やら曲やら様々なお稽古を見ているうちに、

もしかしてこれさえ押さえればある程度上手く見えるのではないか?

というポイントを見つけました!

いや、気付くの遅いのですが。
そしてあくまで私個人の見解なのですが。

でも、この3点に気を付けると、それまでよりちょっとばかり整って見えるのは間違いないはず…!
初心者の小さな発見を、思い切って記事にしてみたいと思います!!


【1】親指


まず一つ目は指先です。

これはサークル時代にも先輩にアドバイスいただいたのですが、指先がスッと揃っていると、それだけでだいぶ踊りが締まって見えます

これは実践してみて、あるいは同期の踊りを見ていて、私自身とても納得したポイントでした。

で、さらに。

親指が手にくっついているか離れているかで、また全然違うのです。

日本舞踊は、手先で表現することがあまり多くありません。
平たく伸ばすことが多い印象です。

それだけに、手先の美しさがものを言う気がします。

親指は第一関節を曲げて、平たくなるように手にくっつける。
これだけで、かなりきっちりした感じが出るかと思います。

ただ、役によっても手の使い方は違うので、上に述べたのはあくまで基本的な形の話です。

たとえば男の踊りで勢いや力を出すときなんかは、手を広げていたりもするので、ちょっと変わってくるかと思います。
あとは動物の踊りも全然違いますね。笑 


【2】内股


これも女の踊りに限った話ではありますが…手前に見えている足がきちんと内股になっているかどうかは、ものすごく大きい!

あえて「前の足」と書かずに「見えている足」という書き方をしたのは、たとえば後ろを向いているときの後ろ足(=お客さんから見えている方)にも言えると思うからです。
自分の踊っている映像を見ると、後ろ足がうっかり外に向いていたりして、後向きで止まったときに非常に形が悪くてとても目に付くのです。

踊りの一瞬一瞬で、すぐに足を正しく内股に持っていけるかどうか
きまったときに、きちんと前の足が内側を向いているか

特に前者は、些細なようでいてめちゃくちゃ大きいのではないかと最近感じております。

「一瞬」というところが重要な気がする。
どうしても向きを変えるときに外向きになってしまう瞬間はあると思うのですが、その時間を極力短くしようというのは意識してみています。

【3】体の角度


これも最近やっと身をもって気付いたこと。ですが、すでに読んでいた坂東三津五郎さんの本にちゃんと書いてありました↓

「踊りはじめて十年もやっているのに、正面で決まることができないお弟子さんが意外に多いのです。/足を引いてもおへそが舞台の縁と平行に、まっすぐ向いている。それは日本舞踊の所作にはない形なのです。」(『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』(岩波現代文庫、2015年) p. 13)

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関連記事 ▶︎ 坂東三津五郎さんが踊りを語る本『坂東三津五郎 踊りの愉しみ』

文で読むのと、実際に見たり動いたりするのとでは、やっぱり違いますね。百聞は一見にしかずというのはこのことか。。

たとえ同じ形でも、正しい角度で止まっているか否かで、見え方が全然違います
きまるときに真正面を向くことはほとんどなくて、どうやら斜め45度くらいの方向できまるのが良さそうです。


***

以上、これさえ押さえればちょっとばかり整って見えるのではポイントでした。

引き続き一生懸命お稽古を見て、お稽古していただいて、より素敵に踊れるように精進いたします!



「伝統芸能と自然の関わり〜絶滅危惧種「イヌワシ」を例に〜」@港区エコプラザ


ひっそりと(!)こんな興味深いイベントをやっておりました。

「伝統芸能と自然の関わり~絶滅危惧種「イヌワシ」を例に~」
(12/11(水) 港区エコプラザにて)
 
「伝統芸能の道具ラボ」という活動を通し、歌舞伎や能などに使われる小道具の復元をなさっている田村民子さんと、
多摩動物公園の飼育員でいらっしゃる中島亜美さんのお二方のお話を聴く会。

能に使われる「羽団扇」と「鷺冠」という、どちらも鳥の羽が用いられている二つの小道具を例にとりながら、伝統芸能の道具と環境保全についてお話しくださったのですが、

これがべらぼうに面白かったので、勝手ながらレポートさせていただきます!

***

はじめはお二方の自己紹介から。

田村さんのお話で印象深かったのは、「道具に向き合っていると、「昔は手に入れやすかったもの」が分かる」というお話。
道具を通して、昔の自然環境や、生き物との繋がりが見えてくるとのことでした。

普段 芝居の中で何気なく見過ごしている小道具ですが、あくまで生活に根差していた道具であったから、芝居にも取り入れられているわけですよね。
では生活の中で用いられるのはどんなものかというと、やはり身近にある素材で作られたもので。
当たり前といえば当たり前かもしれませんが、小道具にそのような、環境や民俗学的な側面があることに気付かされたお話でした。

一方、中島さんは「羽団扇」にその羽が使われている、今回の主人公・イヌワシの生態など、詳しくお話しくださいました。
ニホンイヌワシの置かれている厳しい状況が分かり、動物園の役割というものを再認識するとともに、
警戒心の強いイヌワシにとっては「餌をあげる人=テリトリーに入ってくる人」なのだというお話からは、自分が無意識のうちに人間中心の見方になっていたことに気付かされます。

羽団扇は天狗の持ち物として使われるのですが、実際に翔んでいるイヌワシを見たときのことを語る中島さんのお言葉がとても素敵でした。

「野生のイヌワシを見ると本当にかっこよくて、あぁ、昔の人はだから天狗って思ったのかな、この羽を使いたい!と思ったのかな、と感じました」(中島さん)

芸能や信仰や考え方が生まれる瞬間に触れた感じがしてとても力強くて、自分が目にしたわけではないにもかかわらず、お話を聴きながら私もぐっときてしまいました。

***

休憩を挟んで、いよいよお二方の対談になったのですが、その前に今回の話題となっている二つの小道具について。
能楽を全くと言っていいほど何も知らないので、あくまで今回のお話を聴いた上での内容にとどめます。

今回 主に例に挙がっていたのは、能に使われる「羽団扇」「鷺冠」
それぞれ、イヌワシの尾羽と、鷺の羽が使われています。
話の展開の都合上、鷺冠から。

【鷺冠(さぎかん)】
能「鷺」に使われる冠。文字通り鷺を模した鳥が付いている冠で、この鳥の頭のところにすっと一本、鷺の白い羽がついています。(上記リンク先にお写真があります)

この「鷺」という演目は、確か以前テレビでやっていたのを観たはず。
少年もしくは還暦を過ぎた年齢でしか演じられないという神聖な雰囲気の鷺が、最後に橋掛りを歩いていくのですが、これが本当に遠くに翔んでいくように見えて驚いた記憶があります。
 
今使われている鷺冠には、羽が失われてしまっていたものも多かったそうなのですが、田村さんが復元に携わり、無事に鷺の羽が手に入ったそうです(後述します)。

【羽団扇(はうちわ)】
天狗の団扇というとこういうものが思い浮かぶと思うのですが↓
ヤツデ

この一枚一枚の葉が、イヌワシの羽になっているとお考えいただければ分かりやすいかと。(上記リンク先にお写真があります)
イヌワシの尾羽一本一本が360度ぐるりと束ねられており、必要な羽は計12〜13本になるそうです。
この12〜13本というのが、イヌワシの個体一羽あたりの尾羽の数と合致しているとのこと。 

*** 

このイヌワシの「尾羽」というのが面白いポイント。
風切羽(翔ぶときに広げる羽)だとよりよく翔ぶためにアシンメトリーな形をしており、小道具として使うときれいな形にならない。
対して尾羽は、きれいな線対称の形をしているのです。
加えてイヌワシにも個体差があるため、同じ個体の尾羽を揃えないと、きれいな羽団扇にならないのだとか。

つまり、「12〜13本」というのが一致しているのは偶然ではなく、一個体から一つの羽団扇を作っていたということなのですね。


もう一つ羽団扇の話で面白かったのは、その柄の話です。

羽団扇で使われている羽には、茶系の地味なものと、白くて先だけが黒いものとあるようなのですが、
この白い羽は、4〜5歳の幼鳥にしか見られない羽なのだそうです。(幼鳥であることをアピールして、別のテリトリーに入ってしまったときの免罪符になっているのかもしれない、と中島さん)

つまり、この羽が取れるのはほんのわずかの間だけ。希少性が高い羽なのです。
そんな貴重な白羽の羽団扇を使うことができるのは、やはり家元クラスに限られているそうで。笑
自然の状況に合わせた格が生まれたのだなぁと興味深く思いました。


ちなみに能は基本的に一日公演のため、小道具にかかる負担が少なく、道具がとても長く持つそうです(江戸時代ごろの道具も現役だとか!)。
一方、歌舞伎でもこの羽団扇は使われるのですが、25日間興行が続く歌舞伎では消耗が激しいため、イヌワシではなく七面鳥か何かの羽を使っているとのこと。
さすが、弾圧と復活を繰り返してきた芸能だけあって逞しいですね。笑
芸能の目指すものの違いというか、性格の違いがこんなところにも表れるとは…!


そして、この羽団扇についても、中島さんが興味深いお話をされていました。

羽団扇を知ると、鳥の羽のことがよく分かる。
たとえば羽団扇を投げるときの
(筆者注:演目の中で投げるのだそうです)揚力といった、羽の特性。
これを人工で再現するのは難しい
、というお話。

なるほど。。
先ほどの野生のイヌワシのお話と合わせて考えると、その羽の特性を活かせるような見せ方をしたというところもあるのかもしれません(この辺り、能を観ていないのであまり言うのは憚られるのですが…)。

いずれにせよ、自然の中にあるものをよく見て、よく知って作られた道具なのだと思います。
「ただ者ではない雰囲気が出ますよね」と田村さん。観てみたい…!

***

さて、この会の主な話題である、環境保全の話に戻ります。

田村さんは、先に触れた通り、すでに「鷺冠」の復元を成功させていらっしゃいます。
鷺冠に使われる鷺の羽、井の頭動物園の協力を得て、ある時期にだけ生える羽が抜けるタイミングで拾っておいてもらい、能楽の方に引き渡してもらったのだそうです。

しかし、鷺と違ってイヌワシは絶滅危惧種。
「種の保存法」のもと、その羽はたとえ抜け落ちたものであっても、勝手に使うことはできません。

環境が大きく変化している現代において、あえて危機的な素材を使い続ける必要があるのか、というのが考えどころ。
実際、田村さんは以前、鼈甲のかわりにアセテートという素材を使って、歌舞伎のかんざしを復元したことがあるそうです。
「伝統芸能の道具ラボ」サイト
産経新聞のこちらの記事も分かりやすいです

今後は環境の保全の面も意識しつつ、この羽団扇の復元に携わっていくというお話で対談は一旦終了となりました。

***

対談の冒頭に、「生物文化多様性」という考え方が紹介されました。

聞き慣れぬ言葉ですが、ざっくりまとめると「文化や歴史は、地域ごとの生物多様性のもとで生まれてきた」ということ。
衣食住や道具はもちろん、言葉や信仰もそう。生物多様性と文化の多様性は、相互に関わりあって生まれているわけです。 

この辺り、言われてみれば当たり前の話なのに、全く意識しないでおりました。。
だからとても興味深かった。

そうなんですよね。
文学も芸能も、もっと身近な生活の風習も、古来その土地にある自然のもとでなければ生まれてこないはず。
当たり前のように密着していたはずなんですよね。

ちょっと話はずれますが、学生時代に古典文学をかじっていたとき、そこに出てくる風習や考え方に何度も新鮮な驚きを覚えました。
今では失われているような医学や自然との共生の知恵、植物になぞらえて想いを詠む歌の多さ、自然や動物の描かれ方…。

都会にいるとなかなか身近には感じ取れませんが、奈良や出雲に行ってみると、当時からあったはずの海や山や岩や川がそのままあって、
あぁ、ここでこういう景色を見ながら、ああいう物語や歌が生まれてきたんだなぁとしみじみと納得がいき、感慨深いものがあります。

芸能も同じなのではないかなと思います。

ただ芸能が文学と違うのは、残して継いでいかなければならないものが多いというところ。

文学は、もちろん研究者の力は必要ですが、文字さえ残っていれば、何とか享受し続けることができるのではないかと思います。
一方芸能は、芸そのものはもちろん、衣装や道具も同時に継いでいかなければならない。
尚且つ、それらは消耗していくのです。

昔と生活環境が大きく変わっている現代、文学を享受するにもいろんな知識が必要になるくらいなのだから、
実際に使われる道具やら何やらに無理が生じてくるのは当然だよなぁ、と。
だからこそ、復元にはいろんな方向、いろんな視点からアプローチしていかなければならないのかなと感じました。
 
***

今回のお話、とにかく興味深いことの連続でした!
これから舞台を観るときに注目して楽しめることがまた一つ増えたな、と思いました。
道具の生まれた背景、素材とその特性…
ちょっとずつ意識して観てみたいと思います。

今 自分が直接的にできることは何もないのですが、知ることができたことにまずは感謝。


プロフィール

わこ

◆首都圏在住╱平成生まれOL。
◆大学で日本舞踊に出会う
→社会に出てから歌舞伎と文楽にはまる
→観劇5年目。このご時世でなかなか劇場に通えず悶々とする日々。
◆着物好きの友人と踊りの師匠のおかげで、気軽に着物を着られるようになってきた今日この頃。

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