ひっそりと(!)こんな興味深いイベントをやっておりました。

「伝統芸能と自然の関わり~絶滅危惧種「イヌワシ」を例に~」
(12/11(水) 港区エコプラザにて)
 
「伝統芸能の道具ラボ」という活動を通し、歌舞伎や能などに使われる小道具の復元をなさっている田村民子さんと、
多摩動物公園の飼育員でいらっしゃる中島亜美さんのお二方のお話を聴く会。

能に使われる「羽団扇」と「鷺冠」という、どちらも鳥の羽が用いられている二つの小道具を例にとりながら、伝統芸能の道具と環境保全についてお話しくださったのですが、

これがべらぼうに面白かったので、勝手ながらレポートさせていただきます!

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はじめはお二方の自己紹介から。

田村さんのお話で印象深かったのは、「道具に向き合っていると、「昔は手に入れやすかったもの」が分かる」というお話。
道具を通して、昔の自然環境や、生き物との繋がりが見えてくるとのことでした。

普段 芝居の中で何気なく見過ごしている小道具ですが、あくまで生活に根差していた道具であったから、芝居にも取り入れられているわけですよね。
では生活の中で用いられるのはどんなものかというと、やはり身近にある素材で作られたもので。
当たり前といえば当たり前かもしれませんが、小道具にそのような、環境や民俗学的な側面があることに気付かされたお話でした。

一方、中島さんは「羽団扇」にその羽が使われている、今回の主人公・イヌワシの生態など、詳しくお話しくださいました。
ニホンイヌワシの置かれている厳しい状況が分かり、動物園の役割というものを再認識するとともに、
警戒心の強いイヌワシにとっては「餌をあげる人=テリトリーに入ってくる人」なのだというお話からは、自分が無意識のうちに人間中心の見方になっていたことに気付かされます。

羽団扇は天狗の持ち物として使われるのですが、実際に翔んでいるイヌワシを見たときのことを語る中島さんのお言葉がとても素敵でした。

「野生のイヌワシを見ると本当にかっこよくて、あぁ、昔の人はだから天狗って思ったのかな、この羽を使いたい!と思ったのかな、と感じました」(中島さん)

芸能や信仰や考え方が生まれる瞬間に触れた感じがしてとても力強くて、自分が目にしたわけではないにもかかわらず、お話を聴きながら私もぐっときてしまいました。

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休憩を挟んで、いよいよお二方の対談になったのですが、その前に今回の話題となっている二つの小道具について。
能楽を全くと言っていいほど何も知らないので、あくまで今回のお話を聴いた上での内容にとどめます。

今回 主に例に挙がっていたのは、能に使われる「羽団扇」「鷺冠」
それぞれ、イヌワシの尾羽と、鷺の羽が使われています。
話の展開の都合上、鷺冠から。

【鷺冠(さぎかん)】
能「鷺」に使われる冠。文字通り鷺を模した鳥が付いている冠で、この鳥の頭のところにすっと一本、鷺の白い羽がついています。(上記リンク先にお写真があります)

この「鷺」という演目は、確か以前テレビでやっていたのを観たはず。
少年もしくは還暦を過ぎた年齢でしか演じられないという神聖な雰囲気の鷺が、最後に橋掛りを歩いていくのですが、これが本当に遠くに翔んでいくように見えて驚いた記憶があります。
 
今使われている鷺冠には、羽が失われてしまっていたものも多かったそうなのですが、田村さんが復元に携わり、無事に鷺の羽が手に入ったそうです(後述します)。

【羽団扇(はうちわ)】
天狗の団扇というとこういうものが思い浮かぶと思うのですが↓
ヤツデ

この一枚一枚の葉が、イヌワシの羽になっているとお考えいただければ分かりやすいかと。(上記リンク先にお写真があります)
イヌワシの尾羽一本一本が360度ぐるりと束ねられており、必要な羽は計12〜13本になるそうです。
この12〜13本というのが、イヌワシの個体一羽あたりの尾羽の数と合致しているとのこと。 

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このイヌワシの「尾羽」というのが面白いポイント。
風切羽(翔ぶときに広げる羽)だとよりよく翔ぶためにアシンメトリーな形をしており、小道具として使うときれいな形にならない。
対して尾羽は、きれいな線対称の形をしているのです。
加えてイヌワシにも個体差があるため、同じ個体の尾羽を揃えないと、きれいな羽団扇にならないのだとか。

つまり、「12〜13本」というのが一致しているのは偶然ではなく、一個体から一つの羽団扇を作っていたということなのですね。


もう一つ羽団扇の話で面白かったのは、その柄の話です。

羽団扇で使われている羽には、茶系の地味なものと、白くて先だけが黒いものとあるようなのですが、
この白い羽は、4〜5歳の幼鳥にしか見られない羽なのだそうです。(幼鳥であることをアピールして、別のテリトリーに入ってしまったときの免罪符になっているのかもしれない、と中島さん)

つまり、この羽が取れるのはほんのわずかの間だけ。希少性が高い羽なのです。
そんな貴重な白羽の羽団扇を使うことができるのは、やはり家元クラスに限られているそうで。笑
自然の状況に合わせた格が生まれたのだなぁと興味深く思いました。


ちなみに能は基本的に一日公演のため、小道具にかかる負担が少なく、道具がとても長く持つそうです(江戸時代ごろの道具も現役だとか!)。
一方、歌舞伎でもこの羽団扇は使われるのですが、25日間興行が続く歌舞伎では消耗が激しいため、イヌワシではなく七面鳥か何かの羽を使っているとのこと。
さすが、弾圧と復活を繰り返してきた芸能だけあって逞しいですね。笑
芸能の目指すものの違いというか、性格の違いがこんなところにも表れるとは…!


そして、この羽団扇についても、中島さんが興味深いお話をされていました。

羽団扇を知ると、鳥の羽のことがよく分かる。
たとえば羽団扇を投げるときの
(筆者注:演目の中で投げるのだそうです)揚力といった、羽の特性。
これを人工で再現するのは難しい
、というお話。

なるほど。。
先ほどの野生のイヌワシのお話と合わせて考えると、その羽の特性を活かせるような見せ方をしたというところもあるのかもしれません(この辺り、能を観ていないのであまり言うのは憚られるのですが…)。

いずれにせよ、自然の中にあるものをよく見て、よく知って作られた道具なのだと思います。
「ただ者ではない雰囲気が出ますよね」と田村さん。観てみたい…!

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さて、この会の主な話題である、環境保全の話に戻ります。

田村さんは、先に触れた通り、すでに「鷺冠」の復元を成功させていらっしゃいます。
鷺冠に使われる鷺の羽、井の頭動物園の協力を得て、ある時期にだけ生える羽が抜けるタイミングで拾っておいてもらい、能楽の方に引き渡してもらったのだそうです。

しかし、鷺と違ってイヌワシは絶滅危惧種。
「種の保存法」のもと、その羽はたとえ抜け落ちたものであっても、勝手に使うことはできません。

環境が大きく変化している現代において、あえて危機的な素材を使い続ける必要があるのか、というのが考えどころ。
実際、田村さんは以前、鼈甲のかわりにアセテートという素材を使って、歌舞伎のかんざしを復元したことがあるそうです。
「伝統芸能の道具ラボ」サイト
産経新聞のこちらの記事も分かりやすいです

今後は環境の保全の面も意識しつつ、この羽団扇の復元に携わっていくというお話で対談は一旦終了となりました。

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対談の冒頭に、「生物文化多様性」という考え方が紹介されました。

聞き慣れぬ言葉ですが、ざっくりまとめると「文化や歴史は、地域ごとの生物多様性のもとで生まれてきた」ということ。
衣食住や道具はもちろん、言葉や信仰もそう。生物多様性と文化の多様性は、相互に関わりあって生まれているわけです。 

この辺り、言われてみれば当たり前の話なのに、全く意識しないでおりました。。
だからとても興味深かった。

そうなんですよね。
文学も芸能も、もっと身近な生活の風習も、古来その土地にある自然のもとでなければ生まれてこないはず。
当たり前のように密着していたはずなんですよね。

ちょっと話はずれますが、学生時代に古典文学をかじっていたとき、そこに出てくる風習や考え方に何度も新鮮な驚きを覚えました。
今では失われているような医学や自然との共生の知恵、植物になぞらえて想いを詠む歌の多さ、自然や動物の描かれ方…。

都会にいるとなかなか身近には感じ取れませんが、奈良や出雲に行ってみると、当時からあったはずの海や山や岩や川がそのままあって、
あぁ、ここでこういう景色を見ながら、ああいう物語や歌が生まれてきたんだなぁとしみじみと納得がいき、感慨深いものがあります。

芸能も同じなのではないかなと思います。

ただ芸能が文学と違うのは、残して継いでいかなければならないものが多いというところ。

文学は、もちろん研究者の力は必要ですが、文字さえ残っていれば、何とか享受し続けることができるのではないかと思います。
一方芸能は、芸そのものはもちろん、衣装や道具も同時に継いでいかなければならない。
尚且つ、それらは消耗していくのです。

昔と生活環境が大きく変わっている現代、文学を享受するにもいろんな知識が必要になるくらいなのだから、
実際に使われる道具やら何やらに無理が生じてくるのは当然だよなぁ、と。
だからこそ、復元にはいろんな方向、いろんな視点からアプローチしていかなければならないのかなと感じました。
 
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今回のお話、とにかく興味深いことの連続でした!
これから舞台を観るときに注目して楽しめることがまた一つ増えたな、と思いました。
道具の生まれた背景、素材とその特性…
ちょっとずつ意識して観てみたいと思います。

今 自分が直接的にできることは何もないのですが、知ることができたことにまずは感謝。