ほんのり*和もの好き

歌舞伎や文楽、日本舞踊、着物のことなど、肩肘張らない「和もの」の楽しみを、初心者の視点で語ります。

文楽

2019年 思い出の舞台(歌舞伎・文楽・日本舞踊ほか)


あっという間に年の瀬ですよー!!!どうしてこうも時の流れは早いのか。。

今年もたくさんの古典芸能の舞台に触れられたこと、心から感謝しています。
今回は、今年観た思い出深い舞台を思い返そうという企画です!


★以下、それぞれの演目名をクリックしていただくと感想記事に飛びます!

■歌舞伎


ほぼ毎月観に行きましたが(7月だけばったばたで行けず)、「2019年歌舞伎ベスト10」を挙げるとしたらこんな感じ(上演順)↓

熊谷陣屋(2月)
吃又(3月)
関の扉(3月※国立小劇場)
実盛物語(4月)
野崎村(4月) 
め組の喧嘩(5月) 
封印切(6月) 
沼津(9月)
寺子屋(9月)
市松小僧の女(11月)
蝙蝠の安さん(12月※国立大劇場)

※劇場表記なしはいずれも歌舞伎座

だーいぶ偏りはありますが。笑
どれも時間を巻き戻してもう一回観たい。本当に大切な、幸せな時間でした。

で、みなさん。
お気付きでしょうか。


そうです、11個あります。笑
10個絞り切った後に安さんが楽しげにやってきたので…世界の喜劇王に免じてお許しを…


■文楽


今年は「中将姫雪責」「阿古屋琴責」に始まり、
妹背山婦女庭訓」の通し、「嬢景清八嶋日記」、「艶容女舞衣」、そして今月の「一谷嫰軍記」と観て参りました。

劇場公演以外では、明治神宮で行われた「にっぽん文楽」屋外公演も印象的。
日高川」と「小鍛冶」を、間近で楽しんできたのでした。
これは嬉しい体験でしたねぇ…甘酒もおいしかった。笑 

「妹背山」や「一谷嫰軍記」のように、通しで作品に触れることができたのはとても貴重だったなぁと思います。
歌舞伎との発祥の違い、芸の違いを、改めて感じる機会となりました。

一つの物語として語られる芸能であった浄瑠璃と、役者の芸を観る歌舞伎。
何となく一括りで語られがちですが、楽しみ方が全然違うんですね。

また、通しで観ておくと、ピックアップされる各場面の味わいも大きく変わってきます。 

***

2月の中将姫と阿古屋は特に凄かったなぁ。
今でも思い出すとぞくっとします。

吉田簑助さんの遣う娘の人形はとんでもない濃密さで、すぐに分かります。
先日テレビを観ていた際も、あまりに繊細な動きの人形がいたので確認してみたら、やはり簑助さんでした。
妹背山の雛鳥も凄かったですが、私としてはこの中将姫がとにかく衝撃的で、たぶん一生忘れないだろうと思います。

妹背山の「妹山背山の段」も忘れられない。
ど迫力のサラウンド浄瑠璃と、舞台の上で命を懸けている人形たち…圧巻でした。

「日向嶋」(嬢景清八嶋日記)も良かった。私は文楽のこの雰囲気にノックアウトされたんだったなぁ、と思い出すような舞台でした。


■日本舞踊


大きい公演小さい公演ちょこちょこ観ました。

日本舞踊協会公演この記事)は、今年は一公演しか行けなかったのですが、テレビでも放送した「夕顔棚」が印象に残っています。
長年一緒に過ごしてきた夫婦ならではの、お互い何も言わずに分かるみたいな空気感や温かみ、気心知れた関係だからこそ出てくるおかしみ…
そういう全てを踊りで表現できるのって、すごいですよね。
思わず笑顔になってしまう踊りでした。

それから檜゚男ですよね!
あれは良かった。日本舞踊の手法で大体なんでも表現できる、という自由さ、楽しさが伝わってくる舞台でした。

感想は書きませんでしたが、流派を超えた男性舞踊家集団「弧の会」の公演「コノカイズム」も素晴らしかったです。
衣装をつけない素踊りで表現される、踊りの幅の広さ
衣擦れの音、力強く踏む音、声…男性群舞ならではの迫力に熱狂
本当に会場の温度が上がっていました
お近くで公演がある際には是非っ!!!!

歌舞伎のお弟子さんたちによる舞踊の会「ひとつなぎの会」も非常に印象深い公演でした。
衣装も道具もない手作りの会でしたが、踊りがとても丁寧で、観ていて本当に気持ちが良かった。 
来年も絶対に観に行きたい!
今年が第二回とのことでしたが、ぜひとも長く続いてほしい公演です。
ちょうど自分がお稽古していた曲も出ていて、そういう面でもとても勉強になりました。

それから、中村鷹之資さんと渡邊愛子さんご兄妹の舞踊の会「翔之會」
鷹之資さんの踊りの気持ち良さはもちろんのこと、愛子さんの「道成寺」は今でしか観られないようなエネルギーがあって忘れられません。


■その他


【狂言】

三鷹市の「東西狂言の会」に行ってみました。物心ついてからの初狂言!
いやぁ、楽しかったですねぇ。笑いました!
笑いの方向性って、そう大きく変わらないんだな、と思いました。
これ以来、テレビでも狂言を積極的に観るようになった気がします。

なお、この公演にご出演だった茂山千作さんは、今年9月21日に逝去されました。
素敵な舞台を拝見できて、本当に本当に有難いことでした。
謹んでご冥福をお祈りいたします。 


【女流義太夫】

今年はなんと、三味線と語りの体験にも行ってみたのです。

語りの難しさが!半端ではない!!!
何が求められていて、何を目指すべきか、そのために今何ができるのか…
最初の一歩すらどこにどう出せばいいのか分からず、こんなに何も分からない一時間半は人生で初めてだなぁと思いました。
多分ですが大学の数学科の講義に出た方がまだ理解できたんじゃないかと…(きっとそれも無理)

そんな経験をしてからの、「女流義太夫Special Live」。
竹本駒之助さんの語りと、鶴澤都賀寿さんの三味線です。
本当に鮮やかに、きめ細かく語られていくのを聴きながら、「物語る」ことの力を感じたのでした。
文章って、語られることによってこんなにも色彩を増すのか、という。

何というか、あんなにも難しいものを追究して、深い次元で芸能を成り立たせ続けていらっしゃる方々がいることに、自然と頭が下がるような思いでした。 


【素浄瑠璃】

そんな女義の経験から、ついに素浄瑠璃の会にも出向いてみました。
これまで文楽というと人形を観てしまいがちだったので、語りだけ聴きに行って飽きてしまわないか、ちょっと不安だったのです。

しかし全然そんな心配は不要ですね!
新たな楽しみを知ってしまったぞ!という感じです。笑
 
これも感想をアップし損ねましたが、国立劇場の「文楽素浄瑠璃の会」という公演でした。
竹本織太夫さんの「引窓」が素晴らしかった。泣いてしまいました。。

織太夫さんは、以前講演を聞きに行ったことがあり、そこから密かに応援しているのです。笑
去年観た「夏祭浪花鑑」の「長町裏の段」とか、今年の「日向嶋」(先述)もとても好きでした。

今まで人形メインで観ていた文楽ですが、義太夫の体験、素浄瑠璃の鑑賞を経て、語りそのものも以前より楽しめるようになった気がします。


■まとめ


ふぅぅぅ。
駆け足で振り返りましたが、これでもまだ全然足りないんだから、今年は充実した年だったのでしょうね。
健康に過ごせたこと、(ぎりぎりではありますが)金銭的な余裕があったこと、ありがたいことです。

来年も行ける範囲で無理なく、でも後悔なく楽しめたらいいな。
すでに観に行きたい公演がたくさん控えていて、嬉しい限りです。

***

本年も大変お世話になりました。
お読みいただいていることが、大きな励みと喜びになっております。
小さな拙いブログではございますが、今後とも何卒宜しくお願い致します。

それでは、どうぞ良いお年をお迎えください!


「一谷嫰軍記」観てきました!~国立劇場12月文楽公演 初心者の感想~


千穐楽から随分経ってしまいましたが。笑

東京で文楽を観られる月は絶対に観ると心に決めています。
文楽のチケットはすぐに売り切れてしまうので、今回も必死で取りました…。

さて、令和元年12月の演目は「一谷嫰軍記(いちのたに ふたばぐんき)
歌舞伎で「熊谷陣屋」の場面だけ観たことがあります。(感想はこの記事

通しとなると、同じ場面でもまた全然違う味わいがあるんだろうな、と思いながらの観劇でした。

で、実際その通りでした。笑

初めて通しで味わう「一谷嫰軍記」、そして初めて文楽で観る「熊谷陣屋」。
初めてづくしの感想です。

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今回の筋書の表紙・熊谷。かっこいい…!!!
 
***

以前 歌舞伎で「熊谷陣屋」を観たときに感じたのは、「この場面で誰も真実を語れないから分かりにくい」ということ。
きっと通しで観たら、流れが理解できるからもっと分かりやすいのだろうと思っていました。

しかし、通しでも敦盛と小次郎がすり替わったのは、知っていないと気付かない
「陣屋」で真実が語られるまで、ずっと敦盛が討たれたものとして観ていてもおかしくないのです。

「敦盛」とされている人物が、実は熊谷の一子・小次郎であると分かりながら観ていると、「組討」での熊谷と敦盛(実は小次郎)のやり取り、「陣屋」での熊谷と相模とのやり取りの一言一言が、全く別の響きで聞こえてきます。

結局分かりやすさという面では「熊谷陣屋」のみを観たときとそう変わりませんでしたが、歌舞伎とは別の深みと感動がありました。

***

通しで観たときに、やはり「熊谷陣屋の段」がクライマックスではあるのですが、個人的にはその二つ前の「組討の段」がとても好きでした。(太夫:睦太夫さん/三味線:清友さん)

『平家物語』では「敦盛最期」にあたる場面ですが、先にも触れた通り、この場面においての敦盛は「実は小次郎」、熊谷の一子です。

その二人が、親子であることを隠して戦い、熊谷が我が子を討つ。

最後まで凛と気高い敦盛(人形:一輔さん)と、悩み苦しみながら大きな選択をする熊谷(玉志さん)に抉られます。

熊谷、討ち取った敦盛の首を、何度も何度も見るのです。
ここでは小次郎のことは一切語られませんが、分かって観ていると切ない。

それを敦盛だと思い込んで死んで行く玉織姫(簑紫郎さん)にも、敦盛が本当は生きている、ということは伝えられない。
でもこの場面においては、玉織姫が「あの世で一緒に」という思いで旅立っていけるのは、唯一の救いかもしれません。

「エヽどちらを見ても莟の花」という熊谷の詞が刺さりますね。。
まだ咲いていない、咲くはずだった莟が、絶えなければならない世の中なのです。 

***

歌舞伎で「熊谷陣屋」を観たときは、この後の「熊谷桜の段」の途中あたりから話が始まっていたかと思うのですが違ったか。。(芳穂太夫さん/藤蔵さん)

歌舞伎で観ると、この陣屋に熊谷の妻・相模(簑二郎さん)や藤の局(勘彌さん)が来ている緊迫感がいまいち伝わりません。
しかしここまで観てくると、

・我が子・小次郎を討ってしまった熊谷
・それを知らない母・相模
・息子・敦盛が相模の夫・熊谷に討たれた藤の局(しかも最初は熊谷が相模の夫とは知らない)

という、それぞれに非常にぎりぎりのところにいる三人が揃う場面だと分かる。

歌舞伎で観た「熊谷陣屋」は、出だしからしてこんなに不穏な場面だったわけです。 

そこからの熊谷と相模のやりとり、先ほども書きましたがフラグに次ぐフラグで緊迫感があります。(織太夫さん/燕三さん)
小次郎の初陣が心配でならない相模と、武士である限り覚悟を持つべきだと厳しく諭す熊谷。相模に心の準備をさせているかのようです。
最後まで小次郎の死ははっきりと語られないものの、ここでじわじわとその事実が見えてくるんですね。

で、(一気に場面を飛ばしますが)事実が分かったあとが本当に切ない。(靖太夫さん/錦糸さん)
相模、我が子をたくさんたくさん抱くのです。
「持つたる首の揺るぐのを頷くやうに思はれて」なんて凄い詞章ですよね。。
本当にこの辺り、語りと人形とが三位一体となって哀切極まれりという感じです。

この後に、やっと敦盛と小次郎を入れ替えた真実が、小次郎の母・相模に向かって語られます。
全く筋を知らずに観ていたら、ここで初めて、「陣門」からの一連の流れの意味が分かるのです。
この作品の初演のときって、かなり衝撃的だったのではないかなぁと思います。。

さて、文楽の公演はやはり言葉を「聴く」ことにもかなり注力するわけで、字幕も出るので尚のことなのですが、
熊谷が出家するときの「十六年も一昔〜」に続く地の文が美しくてですね。。

「ほろりとこぼす涙の露、柊に置く初雪の日影に融ける風情なり」

というところなのですが、なんともここが切なくて。
泣きつく相模に対してずっと強い態度を取っていた熊谷ですが、当然ながら本音はこれなんですよね。
思わず「ほろりと」こぼれるその涙が見えるような表現だなぁと。

怒涛のドラマに翻弄されていると、突然こういう美しい言葉が混じり込んでくるので気が抜けません。笑

***

ここでちょっと方向性を変えて、歌舞伎との比較をば。
飛ばしてしまった場面も掘り返しますよ!笑

歌舞伎の大きな見せ場である「制札の見得」は、文楽でもほぼ同じ形でありました(というよりも、文楽の形を歌舞伎が持ってきたという順序でしょうかね)
熊谷の人形(玉志さん)、黒地に金の鎧で動きも良くて、とてもとてもかっこいいのですが、その極みがやはりここだなという気がします。

もう一つ、歌舞伎での熊谷の大きな見せ場として、最後の花道の「十六年は一昔、夢だ、夢だ」という台詞がありました。
しかし、文楽では意外とこのあたりがさっぱりとしていた印象。この台詞のあとにも、弥陀六や義経とのやりとりが続くんですね。

そして謎多き石屋・弥陀六。
この人が「一枝を伐らば一子を切る」の意味を理解したときの「忝い」という一言が、歌舞伎ではかなり重かった気がするのですが、これも文楽の方はあっさり進むなぁと思いました。

この二つを通して、歌舞伎の演出は役者の芸を見せるものなのだな、というのを再認識した次第。
本来であれば、一つの台詞のうちの一部分であったほんの一言を、「ここを見てくれ!」という役者の見せ場に仕立て上げて盛り上げていくんだなぁと思いました。

弥陀六は歌舞伎の方で歌六さんがなさったのも大好きだったのですが、今回もやっぱり良かった。
人形は文司さん、弥陀六としての軽さと、平家の武士としての重厚感がとても好きでした。
この二面があるから弥陀六という人物は面白いなぁと思うのですが、同一人物でこの軽さと激しさを語り分ける靖太夫さん、そして三味線の錦糸さんの床にも心を掴まれました。。
私、弥陀六好きなんだろうか。笑

***

以前にもこの記事に書きましたが、物語そのものを味わいたいときは、私は歌舞伎より文楽の方が好きなのです。
今回観てみて、改めてそう感じました。

歌舞伎で観た上で、同じ演目の文楽も観てみて初めて分かる二つの芸能の魅力。
双方の楽しみ方が、また一つ深まったような気もしています。嬉しいことです。

貴重な機会と、心に刻み込まれる舞台を観られた幸せで、今回の文楽公演も大満足でした!

次の東京での文楽公演は、2月の国立劇場(公式はこちら)。
2月の公演は3部制なので、比較的チケットが取りやすいと言われています。
どれも歌舞伎で観たことのある有名な演目ばかりなので、またまた楽しみが増えております。

【関連記事】
「熊谷陣屋」観てきました!~二月大歌舞伎 夜の部 初心者の感想
【歌舞伎初心者向け】ざっくり予習する「熊谷陣屋」


 

「艶容女舞衣」観てきました!〜国立劇場文楽9月公演 初心者の感想〜


超 今 更 ! ! ですが、国立劇場の9月文楽公演、感想第二段です。

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第一弾はこちら↓


8月に女流義太夫で聴いた「酒屋の段」(感想はこの記事
あのときは省略された(?)丁稚のもとに子供が預けられるくだり、酒屋のあとの半七・三勝の心中のくだりも加わり、2時間近くの公演でした。

以下、心に残ったポイントをぽつぽつと。

※カッコ内は以下の通りです。
役名(人形主遣い)、(太夫/三味線) 

***

前半、丁稚文哉さんがかわいいですねぇ。

頬杖をついて、隣の家のお稽古の様子に耳を澄ます様子とか、何かする度に主人に「阿呆」と言われてしまう間抜けさとか、愛らしいです。

5月の「妹背山」でも丁稚はかわいかった記憶(うわ、私これ感想書きかけになってる!うわぁぁぁ)

***

そして、前回素浄瑠璃で聴いたときにも刺さった宗岸(玉也さん)の、男手一つで育てた娘・お園(清十郎さん)に対するこの詞。

「…愚痴なと人が笑はうが俺や可愛い不便(筆者注:不憫)にござる。可愛うござる╱ ╲ ╱ ╲ ╱ ╲わいなう」 

それまではそんな気配はおくびにも出さないのに、堪えに堪えていたんだよなぁ。
こういう、感情が溢れてしまう瞬間に弱いのです。丁寧に語られるところに、追い打ちをかけてくる三味線(ここは藤太夫さん清友さん)。 
 
自らが一番辛いであろう立場のお園ですが、驚いて父に寄り添います。
お園ちゃんは本当に、気遣いの塊なんですよ。。

***

「今頃は半七様、どこにどうしてござらうぞ。…」

で始まる有名な詞(この辺りから津駒太夫さん藤蔵さん)。
ここ、人形で観るとお園清十郎さんの形が何ともきれいですね。。
 
行灯をつけて、その行灯にもたれ、玄関を見遣り、所在なく家の中に目を遣る。
じわじわと動く人形。
気もそぞろな様子が非常に細やかでリアルです。

去年患ったときにいっそ死んでおけば…と悶えながら泣くお園に、やっぱり胸が痛みます。どうかそんなこと言わないで…。
 

このあと夫の愛人の子に当たるお通ちゃん(勘昇さん)が出てくるのですが、お園はこのお通ちゃんを迷いなく抱く、その抱き方にも愛があって、本当に何て強い女性だろうかと。
夫のことを一番に考えて、愛人にも恨みを持たず、その子供を愛情深く抱き上げるって。
舅に当たる半兵衛がお園を手放したくないのも、よく分かります。

前回私が好きだったのは、半七からの書置を家族で読む場面。

ここね、お通ちゃんがかわいいんです。はいはいするんです。
はいはいして、半兵衛(玉志さん)のとこに寄っていって、半兵衛がそれにはっと気付いてよしよししてあげる。このさりげないくだりが、何だかとても温かくて良かった
頑固ジジイのような役どころかと思わせておいて、半兵衛はどんどん温かみを増してきますよね。
 
その場で動いている人物以外の、こういう細かい部分って、やっぱり聴いて想像するだけでは補い切れない部分で、人形浄瑠璃だからこその情の深さだなぁと思います。


この書置のなかの、「夫婦は二世と申すことも候へば、未来は必ず夫婦にて候」というところ。
半七はあの性格なので絶対口だけだと思うんですが(実際このあとの道行で、三勝に向かって「千年万年先の世まで、必ず二人は一緒ぞや」とか吐かしてるんですよね)
それを読んだお園が素直に喜ぶところ、そして父・宗岸が「われが為にいつち良いことが書いてあるなあ」と言ってあげるところ、どこまでも美しい親子だなぁと…。
 
たぶん、二人ともそんなのは口先だけだと分かっていると思うんです。
それでも、半七の両親がいる手前もあるかもしれませんが、そこに望みを見出だして素直に喜びを見せる。
そういう嫁に、半兵衛夫婦も助けられるところがいっぱいあったんだろうなぁと思います。


で、この一連の流れを外から見ているのが、事件の中心にいる半七・三勝カップルです。
三勝の嘆き、外にいるなんてバレたらまずいわけで、絶対に声を抑えなきゃいけないところなんですよね。
でも、心の中は到底静かなわけがなくて。

そういう内面的なドラマを、太夫と三味線がしっかり見せてくれるんです。
物凄く盛り上がるのです。静かな場面ですが、音曲的には一番盛り上がっていたと思います。

義太夫の、こういうワーッと感情を煽るところ、いつもがっつり心を持っていかれます。。大好き。

このあと、二人の最期の様子を見せる道行の段があって、幕になります。

*** 

いやぁ、毎度ながらすごい迫力。

歌舞伎座で観る義太夫狂言も好きなのですが、私が文楽を観るのは専ら国立小劇場なので、体に届く音圧が歌舞伎座とは全然違うんですよね(歌舞伎座も舞台から遠い席ばかりなので笑)。


12月の文楽公演、チケット取れるかしら。
次はあの「熊谷陣屋」を含む「一谷嫩軍記」。一度通しで観てみたかった演目です。(歌舞伎の「熊谷陣屋」感想はこちら
それから、鑑賞教室の方では、去年も出た「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめ こいのひがのこ) 火の見櫓の段」この記事と、「平家女護島(へいけ にょごのしま) 鬼界が島の段」が観られます(それぞれ「お七」「俊寛」 と言った方が分かりやすいかもしれません)

スケジュール的に、鑑賞教室は諦めかもしれませんが…この12月公演は本当にチケットが取れなくて、去年も日々戻りを狙っていた記憶があります。

チケット争奪戦、頑張ります…!!


 

「嬢景清八嶋日記」観てきました!〜国立劇場文楽9月公演 初心者の感想〜


9月は貴重な、「東京で文楽を観られる月」です!
(国立劇場の文楽公演は2月、5月、9月、12月しかないのです…)

本当は昼夜チケットを取りたかったのですが、昼があっという間に売り切れ…
夜が取れただけでもありがたい!というレベルで文楽はチケットが取りづらい。。

ということで、わくわくしながら行って参りました!

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今月の筋書の表紙、景清と糸滝の再会の場面。写真一枚でこんなにドラマティック。 

夜の部は「嬢景清八嶋日記(むすめかげきよ やしまにっき)」「艶容女舞衣(はですがた おんなまいぎぬ)」の二本立て。
「嬢景清~」は今年11月に、国立大劇場で歌舞伎でも上演予定。(詳細は国立劇場HPへ)
「艶容女舞衣」は、先月女流義太夫で堪能した演目で(この記事)、いずれも他の観劇に繋がるのが嬉しい二本でした(^^)

まずは「嬢景清八嶋日記」から感想をば。

「艶容女舞衣」の感想はこちら↓
 


1.花菱屋の段

(太夫:織太夫さん、三味線:清介さん)

初っ端から、花菱屋の女房(人形:文昇さん)がパンチを効かせてます。笑
早口であちらこちらへとびしばし指示を飛ばし、これは主人が尻に敷かれっぱなしなのもよく分かるなぁと。

この女房はじめ、そこそこキャラの濃い登場人物がとにかくたくさん出てくるのですが、語り分けが鮮やかで、途中で一人の太夫さんが語っていることを完全に失念
文楽はこういうところが面白い!!

歌舞伎だと、女方は美しい声で台詞を言うことが多いように思います。
対して文楽の太夫さんが語る女性は、決して「美しい声」ではないのです。
にもかかわらず溢れ出る、糸滝(簑紫郎さん)のかわいさ…!不思議だなぁといつも思います。

この場面、父に一目会いたいと暇乞いをする糸滝にみんなが優しくしてあげるのですが、先ほどの
女房が糸滝にかける言葉が良いんです。 

「皆の衆さへする餞別、おれが負けて立つものか。十年の極め五年にして、五年の年を餞別」 

負けず嫌いなのか優しさなのか、恥ずかしいのをごまかしているのか。笑
何にせよ、年季を五年も負けてくれるんだからすごいです。結果だけで見れば、もう圧倒的に思いやりの塊です。
結局この場面、遊郭とは言えものすごく情に溢れた経営陣なのです。


2.日向嶋の段

(太夫:竹本千歳太夫さん、三味線:豊澤富助さん)

能の謡の厳かな雰囲気から始まり、最初は景清(玉男さん)一人の場面。
平家の仇討ちを為し切れなかった不甲斐なさ、自ら盲目となり、乞食となっている今の境遇を嘆くのですが、

ここが凄くて。

盲目の景清、最初は杖をつきながらよろよろ出てくる。
でもこの感情を露にするところは一変して、動き方や語り方が強くて凄みのある武士そのものなんです。
心臓抜かれそうなほど迫力があった。

ここに、左治太夫(簑二郎さん、先ほどの花菱屋に糸滝を連れてきた女衒です)に連れられ、糸滝(簑助さん)がやって来ます。
 
あぁもう、簑助さんの人形はなんでこんなに表情が出るんだろう。
顔は変わっていないはずなのに。泣きも驚きも全部分かる。

景清と糸滝の出会う場面、泣けて泣けて仕方ありませんでした。(最初に載せた写真の場面はここです)
見えない目をかきむしり、必死にこじ開けようとしてもやっぱり娘の姿を見ることが叶わない、父としての苦しみ。
それでも父が自分を抱き寄せてくれたことに気付き、はっと驚き、涙にくれる娘・糸滝。

「親は子に迷わねど 子は親に迷うたな」という景清の詞、文で読むといまいちしっくり来ないのですが、
聴きながら、これは非常に愛情深い台詞だったんだなぁと思いました。
ここまで来てくれたことへの感謝、苦労を掛けたことへの侘び、忘れていた娘への愛情、たぶんそういういろんな思いが詰まっているんだろうなぁ、と。
心から娘を労い、愛しく思っている言葉のように感じました。

糸滝、親が話している間も、常にそれに反応しながら、何かしらの感情を表しています。本当に生きている。
簑助さんも凄いし、それに付いていく左遣い・足遣いの方々も凄い。

それから左治太夫、倫理的に見たら職業としてはいかがなものかというところなのですが、人柄としてはとても優しいんですよね。
私は彼が、糸滝の涙をそっとぬぐってあげているのがたまらなく好きでした。

この左治太夫、景清には糸滝が身売りしたことを隠し、大きな百姓家に嫁いだと偽るのですが、景清は武士として、この結婚に猛反対。

…と見せかけて、船に乗り込んだ娘へ「今のは全て偽り」と、愛ある言葉をかける父親の姿も本当に泣かせるんです。

「今叱りしは皆偽り。人に憎まれ笑はれず夫婦仲よう長生きせよ。与へし太刀を父と思ひ肌身も離さず回向せよ」
 
かける言葉は、紛れもなく一人の父親で。ちょっと屈折してますよね。でも間違いなく愛してるんです。

その後、娘が結婚したというのは嘘で、実は身を売ったと分かったときの、景清の激情。
見えないながらも駆け回り、暴れ、もらった金を叩きつけ、絶叫する、その痛切さたるや。
ここの台詞も好きです、溢れてしまう想い。

「ヤレその子は売るまじ。左治太夫殿、娘やあい、船よなう、返せ、戻れ」 

このあとに続く景清の悔しさの表出は、娘が身売りした金で仕官などできるものか、という生き長らえてしまったことへの恥が中心となっているのですが、
この詞に関して言えば、もっと反射的な、本能的なところなんじゃないかと思います。


3.まとめ


いやぁ凄かったです。このカタルシス。
終わったあと、まるで自分が叫びたい限り叫んだあとかのような気分でした。

人形浄瑠璃でもとてもとても良かったですが、素浄瑠璃で聴くのもしみじみといいだろうなぁ。

歌舞伎だとどうなるのでしょう。
11月の公演は、景清に中村吉右衛門さん。これ以上ない配役だなぁと思います。

好きなものが増えると、楽しみが増えますね。
本当にいい観劇経験でした。

初めての素浄瑠璃!女流義太夫Special Live『艶容女舞衣 酒屋の段』に行ってきました!


初めての女流義太夫・素浄瑠璃!行ってきました!

素浄瑠璃とは
「人形を遣わず、または立方の踊なしで、語りと三味線のみで演奏される浄瑠璃。」(広辞苑第五版)

つまり、人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎の「語り」だけを聴きに行くわけです。
舞台の真ん中に太夫さんと三味線さんが並び、 視覚情報なしで、耳だけで物語を味わいます

***

素浄瑠璃を聴きに行こうと思ったきっかけは、2018年末にNHKで放送していた『古典芸能鑑賞会』でした。

演目は『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく) 新口村(にのくちむら)の段』。 

自らの犯した罪のためにお尋ね者となった忠兵衛と梅川が、もはや逃げきれないと悟り、父親に最後の別れをしにくる場面です。
忠兵衛の父・孫右衛門の、息子を想う心情が胸を打ちます。

が、

これ、歌舞伎座でやったときに笑いが起きたんです。

私はそれが初めての「新口村」だったこともあり、違和感を持ちながらも何となく一緒に笑ってしまったのですが、
「あそこは果たして笑うような場面だっただろうか…」とずっともやもやが残っていました。

その同じ演目を女流義太夫でやったのを、年末に放送していたのです。
語りは竹本駒之助さん。三味線は鶴澤津賀寿さん。 

あの日笑いが起きた場面。

私は家で一人で聴きながら、声を出して泣きました。

大罪を犯した息子のことが、それでも愛しくて仕方がなくて、何とかしてやりたいと思う孫右衛門の苦しさ切なさ。
その言葉がまっすぐに届いてくるのです。

テレビを通していながら、語りの力に衝撃を受けた体験でした。

それ以来、素浄瑠璃をちゃんと聴いてみたい、特に駒之助さんを生で拝聴したいと思い始めたのです。 

***

前置きがとんでもなく長くなってしまいましたが、この度その駒之助さんの語りを都内で聴くことができるとのことで、これは絶対に行かねば!!と足を運んだのでした。

三味線は鶴澤津賀花さん。
この「女流義太夫Special Live」という会を、2013年から開いていらっしゃるそうです。

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会場は神楽坂のライブホール・TheGLEE。
こじんまりとしていて、おしゃれで、落ち着きのある店内でした。

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***

今回上演する「酒屋の段」のざっくりあらすじはこんな感じ。

大阪で酒屋を営む半七は、お園という妻がありながら幼馴染の芸者・三勝といい仲で、子までもうけてしまいます。
これに激怒した半七の父・半兵衛は息子を勘当、お園の父・宗岸(そうがん)も怒り心頭で、娘を連れ戻します。(ここまではこの段の前提)
しかし嘆き悲しむ娘の姿に耐えかね、宗岸は「娘をもう一度嫁として迎えてほしい」と再び半兵衛のもとへ。
つれなくあしらう半兵衛。しかし、そこに隠されていたのは、半七が人を殺めてしまったという事実でした。
今お園を迎えたら、彼女が若くして後家となってしまうことを思い、半兵衛はわざとつれなくしていたのです。
お互いの親心に感じ入り、和解する宗岸と半兵衛。
落ち着かないのはお園です。お尋ね者となった半七を思いやり、いっそ自分がいなければ…と嘆くのです。
(このお園のセリフ「今頃は半七様、どこにどうしてござろうぞ」が大変に有名、らしいです。知らなかった)
お園、そして宗岸と半兵衛、半兵衛の女房がそれぞれ半七と三勝に想いを馳せる中、陰でその様子を聞いていた二人は、名残を惜しみつつ、心中へと向かっていくのでした。 

***

生で聴いてみて、やはり素敵でした。感動。
男親二人の切ない、子を想う心に打たれます。


前半、宗岸が娘・お園を再び半七の家に連れてきたとき。
宗岸の詞の中で、娘のことを「可愛い、可愛い…」と繰り返すのですが、この場面、宗岸としてはものすごくバツが悪いはずなんです。
一旦連れ戻した娘を、再びもとの家に嫁にやろうというのですから。

でも、それでも娘をかわいいと口に出してしまうほど、宗岸としては思うところがあったのですよね。 

この場面で娘を「可愛い」と言うことについて、宗岸は迷ったんじゃないかな、と思います。
でも一度認めてしまったらもう気持ちが溢れてしまって止まらない、という感じがしてとても切なかった。
一人の娘として心打たれました。


一方 半兵衛は、前半はひたすらお園のことを想ってくれるのです。血が繋がっていないにも拘わらず。
それもまた情に溢れている素敵な場面なのですが、私が半兵衛の詞で刺さったのは、後半の半七の書き置きが見つかった場面です。

それまで半兵衛は、息子への想いをあまり口に出していません。
しかしここにきて、息子が善右衛門という人間を殺してしまったことについて

「あのまた善右衛門といういふ奴が、大抵やおゝかた悪い奴ぢゃわいの。あんな悪者でも喧嘩両成敗。わが子の命を解死人にとらるゝと、思へば╱╲宗岸殿。おりゃ口惜しい、アヽ口惜しいわい、エヽ惜しいわいの」

と感情を露わにするのです。

やっぱり本音はここだよね、と。
息子の代わりに縄にかかるくらいなんだから、息子のことを強く想っていないわけがないのです。


お園ちゃんの有名な台詞、「今頃は半七っつぁん、どこにどうしてござろうぞ…」。

大罪を犯し、お尋ね者になっている半七。
三勝と通じ、妻である自分のもとに帰ってきてくれない半七。

半七はろくでもないけれど、お園は本当に純粋に、半七を恋い慕っています。
去年病気したときに、あのまま私が死んでいたら、きっと子どもに免じて三勝を家に迎えることになっただろう、こんなことにはならなかったかもしれないのに…と嘆く。

いや、違うんだよお園ちゃん、そんなに思い詰めないでおくれ。。

半七の書き置きの「未来は夫婦」という言葉を素直に信じ、喜ぶお園。
気が優しすぎるのよ…そこは「せめてマア一日なりとこの世で女夫にしてやりたいわい」という宗岸の詞が、お園としても本心じゃないのかな、と思います。

代弁してくれる人がいて良かったね、と。


この書き置き、半七と三勝がなした子・お通の守り袋に入っていたのですが、
そのお通にかける、半兵衛女房(=半七の母)の詞が忘れられません。

「コリヤ孫よ、モウ父も母もないほどに今夜からこの婆と一緒に寝いよ」

何とも温もりがあるではないですか。

こういう温かい台詞、あの語りで聴くと本当にしみじみといいです。
優しく赤子を抱き寄せているのが目に見えるようでした。

***

義太夫の何が好きかって、この語りで十分に感情を揺さぶられている上に、三味線が大いに煽るところなんですよ。

今回も後半特に、三味線が生み出す空気の震えみたいなものが伝わってきて、はっとしました。
小さな会場だったからこそ味わえた迫力もあったのかもしれません。

いわゆる「曲(唄)」ではないから、どんな風に三味線が鳴るのか予測がつきにくく、それではっとさせられるところもあるのかもしれませんね。

*** 

視覚情報がなくても、それぞれの登場人物の心情が浮き上がってくる。
どんな表情をしていたか、どんなに胸が痛んでいるか、聴き慣れない言葉遣いながらもちゃんと伝わってくる

逆に、視覚情報がないのがいいのかもしれない。
その分、語られる言葉を聴きとって、自分の中で物語を作っていこうと積極的になれる

そんな素浄瑠璃の良さを満喫した会でした。


文章そのものが文学、文芸としてあるのだから、なぜわざわざ語り聴きに行くの?と思うかもしれません。

しかし、語りはその文章に、物語として命を吹き込むための大事な存在です。

確かに文章は、そのままでも面白い。大好きな言葉がたくさんあります。
しかしそれが語られることで、より深く味わい、より深い文学世界に浸ることができるのです。

また行きたい。

なかなか勇気が出なくて一歩を踏み出せませんでしたが、行ってみてよかった。
好きな芸能が、また一つ増えました。

 
プロフィール

わこ

◆首都圏在住╱平成生まれOL。
◆大学で日本舞踊に出会う
→社会に出てから歌舞伎と文楽にはまる
→観劇5年目。このご時世でなかなか劇場に通えず悶々とする日々。
◆着物好きの友人と踊りの師匠のおかげで、気軽に着物を着られるようになってきた今日この頃。

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